帚木07 指を喰う女
フレーズ対訳
帚木 フレーズ対訳 第7章
- 《はやう まだいと下臈にはべりし時 あはれと思ふ人はべりき》094
ずいぶん以前、まだほんの下﨟の分際でございました時、いとしいと思う女がございました。 - 《聞こえさせつるやうに 容貌などいとまほにもはべらざりしかば》095
最前申しあげましたとおり、容貌など特に優れてもおりませんでしたので、
- 《若きほどの好き心には この人をとまりにとも思ひとどめはべらず》095
若い時分の好き心にはこの女を生涯の伴侶にとはまだ思い決めておりませんで、 - 《よるべとは思ひながら さうざうしくて とかく紛れはべりしを》096
頼みの女とは思いながら物足りなくて、とかくほかのおなごで気を紛らせておりましたところ、 - 《もの怨じをいたくしはべりしかば 心づきなく いとかからでおいらかならましかばと思ひつつ》096
何かにつけ悋気をひどくいたすものですから、情も移らずまったくそんな風でなくおおらかでいてくれたらと願いつつも、 - 《あまりいと許しなく疑ひはべりしもうるさくて かく数ならぬ身を見も放たで などかくしも思ふらむと》096
あまりに容赦のない疑りを受けるのも煩わしくて、こんなつまらぬ身に愛想もつかさずこうまで思い入れをするものだと、 - 《心苦しき折々もはべりて 自然に心をさめらるるやうになむはべりし》096
気の毒になる折々もございまして、自然と浮気心を治められるようになりました。 - 《この女のあるやう もとより》097★★☆
この女のやり方は、もともと、 - 《思ひいたらざりけることにも いかでこの人のためにはと なき手を出だし 後れたる筋の心をも なほ口惜しくは見えじと思ひはげみつつ》097
考え至らなかったことでも、どうかしてこの人のためにはと手を尽くすし、人に劣ることでも肝心な点だけは何とかがっかりさせぬよう心して励んだりと、 - 《とにかくにつけて ものまめやかに後見 つゆにても心に違ふことはなくもがなと思へりしほどに 進める方と思ひしかど》097
なにかにつけ誠実そのものといった世話焼きをし、いささかも夫の心に違うことがないようにと思っている様子からすると勝ち気な女だと思っておりましたが、 - 《とかくになびきてなよびゆき 醜き容貌をも この人に見や疎まれむと わりなく思ひつくろひ 疎き人に見えば 面伏せにや思はむと 憚り恥ぢて》097
何かとこちらの意のままになびく様子であったし、醜い容貌にしてもこの人に見られたら疎まれてしまうのではないかとひどく恐れて化粧をし、醜さに鈍感な女だと人に思われては夫の面目をつぶすのではないかと一歩さがって遠慮するなど、 - 《みさをにもてつけて見馴るるままに 心もけしうはあらずはべりしかど ただこの憎き方一つなむ 心をさめずはべりし》097
妻の分を堅く守り努める様子を慣れ親しんでいくうちに愛情も相応にわいて来もしましたが、ただこのにっくきあの一点だけは我慢がなりませんでした。 - 《そのかみ思ひはべりしやう かうあながちに従ひ怖ぢたる人なめり いかで懲るばかりのわざして おどして この方もすこしよろしくもなり さがなさもやめむと思ひて》098
その当初思いましたことには、こうもむやみに従順で怯えてばかりいる女のようだ、何とか懲りごりする目をみせ脅しつけて、例の方面でもすこしましにもなり口やかましいのも直してやろうと、 - 《まことに憂しなども思ひて絶えぬべき気色ならば かばかり我に従ふ心ならば思ひ懲りなむと思うたまへ得て》098
本当にうんざりだとでも思って金輪際縁切りだと素振りを示せば、これほど自分に従う気持ちがあるならきっと思い懲りるだろうと思い至り、 - 《ことさらに情けなくつれなきさまを見せて 例の腹立ち怨ずるに》098
ことさらに容赦なくつれない様子を見せますと、例によって腹立ち恨みたてるのに乗じて、 - 《かくおぞましくは いみじき契り深くとも 絶えてまた見じ 限りと思はば かくわりなきもの疑ひはせよ》099
「こうも感情を露わにするのでは、たとえ夫婦の宿縁が深くてもこれを最後にもう逢うまい。これぎりと思うならこうも理不尽な邪推をしていろ。 - 《行く先長く見えむと思はば つらきことありとも 念じてなのめに思ひなりて かかる心だに失せなば いとあはれとなむ思ふべき》099
行く先長く連れ添ってもらいたいなら、恨めしいことがあってもじっとこらえて男にはありがちなことだと自制して、こんなひがみさえなくなればどんなにいとしく思えることか。 - 《人並々にもなり すこしおとなびむに添へて また並ぶ人なくあるべきやうなど》099
私が人並みにも出世し、すこし貫禄でも出ようなら、正妻たるそなたに並ぶ女などいはしないのだから」などと、 - 《かしこく教へたつるかなと思ひたまへて われたけく言ひそしはべるに》099
みごと諭しおおせたと思いながらいい気になってまくし立てておりますと、 - 《すこしうち笑ひて よろづに見立てなく ものげなきほどを見過ぐして 人数なる世もやと待つ方は いとのどかに思ひなされて 心やましくもあらず》100
女は薄笑いをうかべて「何事につけ見栄えせずぱっとしない間を見過ごして人並みに出世する時もあろうかと待つ分には、たいそう悠長にかまえられて心苦しくもありませんでした。 - 《らき心を忍びて 思ひ直らむ折を見つけむと 年月を重ねむあいな頼みは いと苦しくなむあるべければ》100
辛気な思いをじっとこらえて浮気の性の思い直る時がくるのを見届けようと年月を重ねてゆく当てどないそら頼みは、ひどく苦しいものでしょうから、 - 《かたみに背きぬべききざみになむある とねたげに言ふに》100
もうお互い別れ別れになる汐時でしょう」といまいましげに言うので、 - 《腹立たしくなりて 憎げなることどもを言ひはげましはべるに 女もえをさめぬ筋にて 指ひとつを引き寄せて喰ひてはべりしを おどろおどろしくかこちて》101
腹立たしくなって憎まれ口をさんざ言いつのりましたところ、女もどうして納まらないたちで私の指を一本引き寄せ食いつきましたので、大げさにいたがりこれを口実にして、 - 《かかる疵さへつきぬれば いよいよ交じらひをすべきにもあらず》101
「こんな傷までつけられては、いよいよ出仕するわけにもまいかぬ。 - 《辱めたまふめる官位 いとどしく何につけてかは人めかむ 世を背きぬべき身なめりなど言ひ脅して》101
よくもばかにしてくれた官位もますますもってどうあがけば人並みになれようか。世を捨てるよりない身だろうよ」など言い脅して、 - 《さらば 今日こそは限りなめれと この指をかがめてまかでぬ》101
「では、今日こそはもう仕舞いだね」と、噛まれた指を痛そうに曲げたまま表へ出たものです。 - 《手を折りてあひ見しことを数ふればこれひとつやは君が憂きふし》102★★☆
指を折り二人で過ごした思い出を数えてみるとこの一回切りだったろうか、あなたのことでつらい目を見たのは - 《えうらみじなど言ひはべれば》102
別れることになってもよもや恨んだりはできまいね」など言ってやりましたところ、 - 《さすがにうち泣きて》103
女はさすがに泣き出して、 - 《憂きふしを心ひとつに数へきてこや君が手を別るべきをり など》103
つらい思いを心ひとつにしまってきました、今度こそ君と手を切りしまいにすべき折りです、などと - 《言ひしろひはべりしかど まことには変るべきこととも思ひたまへずながら 日ごろ経るまで消息も遣はさず あくがれまかり歩くに》104
歌で応戦し合いましたが、本当のところ二人の関係は以前となに変わることもなかろうと思いながら、日かずが過ぎるまで便りもやらずあちこちの女のもとへ浮かれ歩いている頃のこと、 - 《臨時の祭の調楽に 夜更けていみじう霙降る夜 これかれまかりあかるる所にて 思ひめぐらせば なほ家路と思はむ方はまたなかりけり》105
賀茂神社の臨時祭の舞楽稽古日で夜更けてたいそうみぞれが降った夜、仲間があちらこちらと別れ別れになる門口で思いめぐらしてみると、やはり最後に帰り着く家と思う場所はよそにはないのでした。 - 《内裏わたりの旅寝すさまじかるべく 気色ばめるあたりはそぞろ寒くや と思ひたまへられしかば いかが思へると 気色も見がてら 雪をうち払ひつつ》106★★☆
宮中の仮寝は心も寒々と思われようし、すぐに激情する女のあたりはさぞや見所があろうと思えましたので、今夜の雪をどう思っているだろうかと一面の銀世界を満喫しがてら雪を払いつつ行きますと、 - 《なま人悪ろく爪喰はるれど さりとも今宵日ごろの恨みは解けなむ と思うたまへしに》107
なんだかばつが悪く照れくさくはあるものの、それでもこうして雪をおかして訪ねるからには今夜こそは日ごろの恨みも消え失せようと思われて中に入りますと、 - 《火ほのかに壁に背け 萎えたる衣どもの厚肥えたる 大いなる籠にうち掛けて 引き上ぐべきものの帷子などうち上げて》107
灯りはほの暗いように壁に向け、着なじんで柔らかな厚手の綿入れを大きな伏籠にうちかけ香りをうつし、上げておくべき帷子などは片付けて、 - 《今宵ばかりやと 待ちけるさまなり》108
今宵ばかりはきっと訪れがあろうと私を待ち受けている様子なのです。 - 《さればよと心おごりするに 正身はなし》108
思った通りだと心おごりしたものの、当人はもぬけのから。 - 《さるべき女房どもばかりとまりて 親の家に この夜さりなむ渡りぬると答へはべり》109
留守役を任された女房たちだけが居残っていて、「親ごさまのおうちに夜分にわざわざ出て行かれました」との答えです。 - 《艶なる歌も詠まず 気色ばめる消息もせで いとひたや籠もりに情けなかりしかば あへなき心地して》110
こちらの気を引く思わせぶりな恋歌も詠まず心のままに恨みを綴った手紙も残さず、まったく取り付く島のない愛情のなさには、やるかたない思いがして、 - 《さがなく許しなかりしも 我を疎みねと思ふ方の心やありけむと》110
あんなに口やかましく情け容赦がなかったのも自分を捨ててほしいとの本心からだったのかと、 - 《さしも見たまへざりしことなれど 心やましきままに思ひはべりしに》110
そんなふうに考えたことはこれまでなかったことながら、腹立ちまぎれに疑ってかかったものですが、 - 《着るべき物 常よりも心とどめたる色あひ しざまいとあらまほしくて さすがにわが見捨ててむ後をさへなむ 思ひやり後見たりし》111
身につける衣服もいつもより心のこもるもので色合いも仕立てもまったく申し分なく、さすがに私がいつ見捨てるかしれぬようになった後でさえこちらのことを思いやり世話をしてくれたのでした。 - 《さりとも 絶えて思ひ放つやうはあらじと思うたまへて とかく言ひはべりしを》112★☆☆
こんな状態にありながらも決して向うから見放すような真似はすまいと思いまして何だかんだと責め立てましたが、 - 《背きもせずと 尋ねまどはさむとも隠れ忍びず かかやかしからず答へつつ》112
きっぱり別れるでもなく尋ねあぐねて困るように姿をくらますでもなく、こちらの面子をつぶさぬ程度に応じながら、 - 《ただ ありしながらは えなむ見過ぐすまじき あらためてのどかに思ひならばなむ あひ見るべきなど言ひしを》112
ただ「以前のままではとても見過ごすことはできません。浮気な心を改め落ち着いた気持ちにおなりなら一緒になりましょう」などと言いましたのを、 - 《さりともえ思ひ離れじと思ひたまへしかば しばし懲らさむの心にて しかあらためむとも言はず いたく綱引きて見せしあひだに》113
それでも私のことを思い捨てまいと思いましたので、しばらく懲らしめておこうとの気持ちから「そなたの言うとおり改めよう」とも言わずかたくなに逆らってみているあいだに、 - 《いといたく思ひ嘆きて はかなくなりはべりにしかば 戯れにくくなむおぼえはべりし》113
心底ひどく苦しみ嘆いてはかなく亡くなってしまいましたので、うっかり芝居をうったりするものではないと身につまされ心底会いたくなったことです。 - 《ひとへにうち頼みたらむ方は さばかりにてありぬべくなむ思ひたまへ出でらるる》114★★☆
ひたすら信をおこうと思う伴侶としては、こんな風であってほしいとこの女のことがつい思い出されたのです。 - 《はかなきあだ事をもまことの大事をも 言ひあはせたるにかひなからず 龍田姫と言はむにもつきなからず 織女の手にも劣るまじく》114
ちょっとした私的なことでもまことの大事でも相談すればしがいがあり、着物を染め上げる腕前は竜田姫といってもおかしくないし、仕立ての腕はたなばた姫の手にも劣らないくらいであってほしいけれど、 - 《その方も具して うるさくなむはべりし とて いとあはれと思ひ出でたり》114
ただ例の性格も備わって全くご立派でした」と言って、左馬頭はひどく愛しそうに思い出すのでした。 - 《中将 その織女の裁ち縫ふ方をのどめて 長き契りにぞあえまし げに その龍田姫の錦には またしくものあらじ》115★★★
頭中将は「その七夕姫の裁ったり繕ったりする方面をほどほどにして彦星との長き契りにあやかればよかったね。まったく竜田姫の錦とあっては他に比較できる代物はないだろうが、 - 《はかなき花紅葉といふも をりふしの色あひつきなく はかばかしからぬは 露のはえなく消えぬるわざなり》115
この世のものである花紅葉にたとえてみても、時節時節の色合いが周りと調和せずそれでいてくっきりと目立つ美質がないようでは、夫の愛情という露を受けて女は魅力の色を増すことなく消えてしまう道理なのだ。 - 《さあるにより 難き世とは 定めかねたるぞや と言ひはやしたまふ》116★☆☆
そうだからこそ、男女の仲はこうだと決めかねるのだ」と言葉を添えて場を盛り立てる。