帚木13 人妻空蝉を犯す
フレーズ対訳
帚木 フレーズ対訳 第13章
- 《君はとけても寝られたまはず いたづら臥しと思さるるに御目覚めて この北の障子のあなたに人のけはひするを》237
光君はそわついてお休みになれず、独り寝するわびしさよと思われるにつけお目が覚めてしまい、この北の障子のむこうに人の気配がするのを、 - 《こなたや かくいふ人の隠れたる方ならむ あはれやと御心とどめて やをら起きて立ち聞きたまへば》238
そこだろうか、さきの話の女が隠れているというところは、いとしいものだと、お気に止まって、そっと起き上がり立ち聞きなさってみると、
- 《ありつる子の声にて ものけたまはる いづくにおはしますぞ とかれたる声のをかしきにて言へば》239
先ほど聞いた子供の声で、「もしもしちょっと、どこにおられますか」と、変声時のかすれた耳に立つ声で尋ねると、 - 《ここにぞ臥したる 客人は寝たまひぬるか いかに近からむと思ひつるを されどけ遠かりけりと言ふ》240
「ここで寝てるわ。お客さまはもうお休みになって。とても近かい気がしてたけど、意外に遠い感じね」と言う。 - 《寝たりける声のしどけなき いとよく似通ひたれば いもうとと聞きたまひつ》241
寝ていたらしい声のしどろなさ、たいそうよく似た感じなので、姉の空蝉だなとおわかりになった。 - 《廂にぞ大殿籠もりぬる 音に聞きつる御ありさまを見たてまつりつる げにこそめでたかりけれとみそかに言ふ》242
「廂でお休みになっておいでです。うわさに聞いていたお姿を拝見しましたが、じつにもう美しいご様子でしたよ」と、秘密を明かすように小声で言う。 - 《昼ならましかば 覗きて見たてまつりてまし とねぶたげに言ひて 顔ひき入れつる声す》243
「昼だったら、のぞき見させていただくんだけど」とねむたげに言うが、夜具に顔を引き入れくぐもった声となる。 - 《ねたう 心とどめても問ひ聞けかし とあぢきなく思す》244
悔しいなあ、もっと熱を入れて聞いてくれよと、物足りなさをお感じになる。 - 《まろは端に寝はべらむ あなくるし とて灯かかげなどすべし》245
「ぼくはここで休みますよ。ああしんど」と、寝るために灯を明るくするなどしているようだ。 - 《女君は ただこの障子口筋交ひたるほどにぞ臥したるべき》246
女君はわずかこの障子口をはさんだはすかいあたりで寝ているに違いない。 - 《中将の君はいづくにぞ 人げ遠き心地してもの恐ろしと言ふなれば 長押の下に人びと臥して答へすなり 下に湯におりて ただ今参らむとはべると言ふ》247
「中将の君はどこなの。ひとけがない感じがしてとても怖いわ」と、自分を誘うような言葉が聞こえた気がしたところ、長押の下で女房たちが寝ながらに返事をするらしく、「下屋にお湯を使いにおりていて、ただいま参りますとのことです」と言う。 - 《皆静まりたるけはひなれば 掛金を試みに引きあけたまへれば あなたよりは鎖さざりけり》248 ★★★
みな寝静まった様子なので、掛け金をこころみに引きあけてみられたところ、向こう側からはかかっていないのだった。 - 《几帳を障子口には立てて 灯はほの暗きに 見たまへば唐櫃だつ物どもを置きたれば 乱りがはしき中を 分け入りたまへれば ただ一人いとささやかにて臥したり》249
几帳を母屋の障子口に立ててあって、灯がほの暗い中、ごらんになると、唐櫃らしき物などいろいろ置いてあってごたごたしている廂の中を踏み分けお入りになってみると、ただ独りとてもこじんまりした様子で休んでいる。 - 《なまわづらはしけれど 上なる衣押しやるまで求めつる人と思へり》250
様子が変で妙に気遣いされたが、顔の上の夜具を押しのけてみるまでは、さきほど呼んでいた人だと思っていた。 - 《中将召しつればなむ 人知れぬ思ひのしるしある心地してとのたまふを》251
「中将をお召しですのでここに。人知れず慕ってきた甲斐があった気持ちがして」とおっしゃるのを、 - 《ともかくも思ひ分かれず 物に襲はるる心地して やとおびゆれど 顔に衣のさはりて音にも立てず》252
何がどうしたのかわけがわからず、物の怪に襲われた気持ちがして、「あっ」と怯え声を立てるが、夜具にふさがり声にもならない。 - 《うちつけに 深からぬ心のほどと見たまふらむ ことわりなれど 年ごろ思ひわたる心のうちも 聞こえ知らせむとてなむ》253
「とつぜんのことで、深くもない出来心とお思いでしょう、もっともですが、長年思いつづけてきた心のうちも申し上げ知っていただこうと思いまして。
- 《かかるをりを待ち出でたるも さらに浅くはあらじと思ひなしたまへと》253
このような機会を待ちつづけやっと手にしたのも、決して浅い思いからではない証しだと、思うようにしてください」と、 - 《いとやはらかにのたまひて 鬼神も荒だつまじきけはひなれば はしたなく ここに人ともえののしらず》254
とてもものやわからにおっしゃる、その口調では鬼神でさえ荒ぶる気持ちになれないご様子なので、ばつが悪くて「ここに人が」と、騒ぎ立てることもならない、
- 《心地はた わびしくあるまじきことと思へば あさましく 人違へにこそはべるめれと言ふも息の下なり》254
と同時に気持ちは、こんなことが許されていいものかと思うと、あまりにひどいと感じて、「人違いでございましょう」と言ってはみるものの息が上がって声にならない。 - 《消えまどへる気色 いと心苦しくらうたげなれば をかしと見たまひて》255
今にも消えて亡くなりそうな様子は、とても痛々しくほってはおけないと思うと、かわいそうにお思いになって、 - 《違ふべくもあらぬ心のしるべを 思はずにもおぼめいたまふかな》256
「間違うはずがない恋心が導きですのに、思いがけずも、人違いなどとおとぼけになるとは。 - 《好きがましきさまには よに見えたてまつらじ 思ふことすこし聞こゆべきぞとて》257
無理にどうしようなどとは、まったく思ってもみないことですが、 - 《いと小さやかなれば かき抱きて障子のもと出でたまふにぞ 求めつる中将だつ人来あひたる》258
心のうちをすこし申し上げてもよいでしょう」と、とても小柄なので抱き取って、もと来た障子のところへお出になったその時に、呼び求めていた中将らしき人が来合わせた。 - 《ややとのたまふに あやしくて探り寄りたるにぞ いみじく匂ひみちて 顔にもくゆりかかる心地するに 思ひ寄りぬ》259
「しまった」とおっしゃるのを、中将の君は不審に思って手探りで歩み寄ったところ、この世のものではない高貴な香りがあたりに満ち、顔にまでくゆりかかる感覚がして、はたと相手が知れた。 - 《あさましう こはいかなることぞと思ひまどはるれど 聞こえむ方なし》260
あまりにひどく、これはどうしたことかと気を揉みながらも、声をかけるすべがない。 - 《並々の人ならばこそ荒らかにも引きかなぐらめ それだに人のあまた知らむはいかがあらむ》261
相手が普通の人なら手荒に引き離すまねもできるようが、それだとて大勢の人に知れてはどうなろう、 - 《心も騷ぎて慕ひ来たれど動もなくて 奥なる御座に入りたまひぬ》262
中将は気が気でなく、心配であとに付き随ったが、光の君は動じることもなく、奥の御座に入ってしまわれた。 - 《障子をひきたてて 暁に御迎へにものせよとのたまへば》263
障子を締め切って、「暁にお迎えにまいれ」とおっしゃたところ、 - 《女は この人の思ふらむことさへ死ぬばかりわりなきに 流るるまで汗になりて いと悩ましげなる》264 ★☆☆
女は、中将の君が今想像していることまでもが死ぬほどやり切れなくて、流れるくらいの汗になって、たいそうつらそうな様子であり、光の君はかわいそうにと責任をお感じになるが、 - 《いとほしけれど 例の いづこより取う出たまふ言の葉にかあらむ あはれ知らるばかり 情け情けしくのたまひ尽くすべかめれど》265
例によって、一体どこからお取りだしになる言葉だろうか、ついその気にさせられてしまうばかりに、情愛こまやかに意を伝えようとお尽くしになるようだけど、 - 《なほいとあさましきに》266
それでもやはりあまりのしうちに、
- 《現ともおぼえずこそ》266
「実感がわきませんので。
- 《数ならぬ身ながらも 思しくたしける御心ばへのほども いかが浅くは思うたまへざらむ》266
人数にも入らぬ身ながら、こんな仕打ちばかりかお見下しになるお心持ちまでもが、どうして軽々しく思わないでおられましょう。
- 《いとかやうなる際は際とこそはべなれとて》266
まったくこんな身の程なのだから分をわきまえよと仰せなのでしょうが」と、 - 《かくおし立ちたまへるを 深く情けなく憂しと思ひ入りたるさまも げにいとほしく 心恥づかしきけはひなれば》267
このように無理をお通しになるを、女は心底思いやりがなくつらいと思いこんでおり、そうした様子を見ても本当に申し訳なくいたたまれない様子なので、 - 《その際々をまだ知らぬ初事ぞや なかなか おしなべたる列に思ひなしたまへるなむうたてありける》268 ★★☆
「その際と際の区別もつかぬ初事だからね。そうだとて、なまじそのへんの連中と同列に見なされては心外です。
- 《おのづから聞きたまふやうもあらむ あながちなる好き心はさらにならはぬを》268
どこぞで耳にされたこともおありでしょう、無体にどうのといった好き心はさらさら習い知らぬことを。
- 《さるべきにや げに かくあはめられたてまつるもことわりなる心まどひを みづからもあやしきまでなむ》268
それだから、まったく、こんなに風にさげすまれるのも、理の当然なほど心が乱れているのが、自分でも怪してもう」
- 《などまめだちてよろづにのたまへど》268
などと、誠意をもっていろいろとおっしゃるけれど、 - 《いとたぐひなき御ありさまの いよいようちとけきこえむことわびしければ》269
なんとも比類のないお姿ゆえ、なおのことますます身をゆるしお気持ちにこたえることが忍びないので、
- 《すくよかに心づきなしとは見えたてまつるとも さる方の言ふかひなきにて過ぐしてむ》269
取りつく島ない不愉な女だとお取りになろうとも、色事の道では言っても甲斐ない女で通そう
- 《と思ひてつれなくのみもてなしたり》269
と思いきめて、すげない態度をとりつづけた。 - 《人柄のたをやぎたるに 強き心をしひて加へたれば なよ竹の心地して さすがに折るべくもあらず》270
心根はしなやかなのに、強情さを強いて加えるものだから、なよ竹のような感じがして、さすがに力では折れそうにない。 - 《まことに心やましくて あながちなる御心ばへを 言ふ方なしと思ひて泣くさまなど いとあはれなり》271
まことにやるかたなくて、身勝手な御心のありようを留まらせる言葉もないと嘆き涙を流すさまなど、とてもいとおしい。 - 《心苦しくはあれど 見ざらましかば口惜しからましと思す》272
心苦しくはあるが、ここで想いを遂げねば、無念が残ろうとお考えになる。 - 《慰めがたく憂しと思へれば》273
女が慰めようもなくつらく思っているので、
- 《などかく疎ましきものにしも思すべき》273
「どうしてこううとましい奴とばかりお思いなのか。
- 《おぼえなきさまなるしもこそ 契りあるとは思ひたまはめ》273
おもいがけないかたちでこうなったことこそ、前世からの因縁であるとお思いください。
- 《むげに世を思ひ知らぬやうにおぼほれたまふなむ いとつらきと恨みられて》273
ただもう恋の何かも知らぬように、ものわかりなくしておいでなのは、とてもつらいことで」と恨み言をおっしゃっると、 - 《いとかく憂き身のほどの定まらぬ ありしながらの身にて かかる御心ばへを見ましかば》274
「まったくこんなみじめな身の上に落ち着く前の、ありしながらの身で、このように激しいお気持ちをお受けするのであれば、
- 《あるまじき我が頼みにて見直したまふ後瀬をも 思ひたまへ慰めましを》274
許されはしない身勝手な期待ながら、愛情をもって枕をならべられる日もいつか来ようと自分を慰めもしましょうが、
- 《いとかう仮なる浮き寝のほどを思ひはべるに たぐひなく思うたまへ惑はるるなり》274
まったくこうした現実感覚のない一夜の逢瀬のありようを考えまするに、この上なく心が乱れます。 - 《よし 今は見きとなかけそ とて思へるさま げにいとことわりなり》275
この上は、こうなったことを口になさらないでくださいまし」と、物思いに沈むさまはまったく無理からぬことである。 - 《おろかならず契り慰めたまふこと多かるべし》276
懇ろに先々の約束をし、あれこれ慰めておあげになることが、多くあるに違いない。