帚木12 中川へ方違え
フレーズ対訳
帚木 フレーズ対訳 第12章
- 《からうして今日は日のけしきも直れり》187
かろうじて今日は雨もよいも持ちなおした。 - 《かくのみ籠もりさぶらひたまふも 大殿の御心いとほしければ まかでたまへり》188
こうして宮中ばかりに籠ってお仕えなさっているのも、左大臣のご心中が思いやられるので内裏よりお出かけになった。 - 《おほかたの気色 人のけはひも けざやかにけ高く 乱れたるところまじらず》189
ご邸一帯のたたずまいや葵の君の雰囲気も凛として気高く一点の乱れた様子もなくて、 - 《なほ これこそは かの 人びとの捨てがたく取り出でしまめ人には頼まれぬべけれ と思すものから》189
やはりこれこそがあの左馬頭たちが棄てがたく取り上げた生活力のある妻としては信のおけるに違いないとお思いになりながらも、 - 《あまりうるはしき御ありさまの とけがたく恥づかしげに思ひしづまりたまへるを》189
あまりに整った麗しい御有様はうちとけがたく気づまりなほど落ち着きはらっていらっしゃるので、 - 《さうざうしくて 中納言の君 中務などやうの おしなべたらぬ若人どもに 戯れ言などのたまひつつ 暑さに乱れたまへる御ありさまを》189
物足りなくて中納言の君や中務などといった人並みすぐれた若女房たちにお戯れごとをおっしゃりながら暑さで着付けを乱していらっしゃる御有様を、 - 《見るかひありと思ひきこえたり》189
女房たちはうっとりする思いで見とれ申し上げている。 - 《大臣も渡りたまひて うちとけたまへれば 御几帳隔てておはしまして 御物語聞こえたまふを》190
左大臣もこちらの棟へお越しになり、光の君がすでにくつろいでいらっしゃるので、御几帳を隔ててお坐りになってお話を申し上げになるのを、 - 《暑きに とにがみたまへば 人びと笑ふ》190
「暑いのに」と苦い顔をなさると、房たちは笑う。 - 《あなかま とて 脇息に寄りおはす》191
「静かに」と小声で制して脇息に寄りかかりになる。 - 《いとやすらかなる御振る舞ひなりや》192
実に鷹揚なおふるまいだこと。 - 《暗くなるほどに 今宵 中神 内裏よりは塞がりてはべりけり と聞こゆ》193
暗くなる頃に「今夜は、中神のため、内裏からお越しでは方塞がりにあたっておりました」と部屋つきの者が申し上げる。 - 《さかし 例は忌みたまふ方なりけり》194★★★
「そうでした、いつもはお避けになる方角でしたわね。」 - 《二条の院にも同じ筋にて いづくにか違へむ いと悩ましきに とて大殿籠もれり》195
「二条院にしても同じ方角だから、どこに方違えすればよいのか。こうもけだるいのに」とおっしゃり休んでおしまいになる。 - 《いと悪しきことなり とこれかれ聞こゆ》196
「とんでもないことです」と、あの女房もこの女房もおいさめ申し上げる。 - 《紀伊守にて親しく仕うまつる人の 中川のわたりなる家なむ このころ水せき入れて 涼しき蔭にはべる と聞こゆ》197
「紀伊守で邸へ親しくお仕えしている人の中川あたりにある家が、近ごろ川の水を堰き入れて、涼しく人目のつかないしのぎ場所でございます」とお耳に入れる。 - 《いとよかなり 悩ましきに 牛ながら引き入れつべからむ所を とのたまふ》198
「まことによさそうだな。けだるいから、牛車のまま入って構わなそうなところを」とお望みになる。 - 《忍び忍びの御方違へ所は あまたありぬべけれど》199★★☆
人目を避けたお忍びの方違え所は左大臣ご自身もあまたお持ちのはずだが、 - 《久しくほど経て渡りたまへるに 方塞げて ひき違へ他ざまへと思さむは いとほしきなるべし》199
ひさかたぶりに婿殿がお出ましになったのに方塞がりのため予期せずよそへ行ってしまわれるのかと左大臣がお考えになってはと、若君ははなはだお気の毒になられたに違いない。 - 《紀伊守に仰せ言賜へば》200 ★☆☆
紀伊守に邸を借りる旨仰せ言をたまわれたところ、 - 《承りながら 退きて 伊予守の朝臣の家に慎むことはべりて 女房なむまかり移れるころにて》200
紀伊守はうけたまわってはみたもののご前を引きさがり、「伊予守の朝臣の家で忌みごとがありまして、女どもが移り住んでおる時分で、 - 《狭き所にはべれば なめげなることやはべらむ と 下に嘆くを》200
手狭ですので失礼なことでもございましては」と下々にこぼしているのを、 - 《聞きたまひて その人近からむなむ うれしかるべき 女遠き旅寝は もの恐ろしき心地すべきを》201 ★★★
お聞きになって、「そんなふうに、人が間近なのが安穏でいい。女っ気のない仮寝は無闇に恐ろしい気持ちがするものだ。 - 《ただその几帳のうしろに とのたまへば》201
ただその几帳の後に寝るだけで」とおっしゃるので、 - 《げに よろしき御座所にも とて 人走らせやる》202 ★☆☆
「ごもっともです。不出来でない御座所にでもなるのでしたら」と使いを走らせる。 - 《いと忍びて ことさらにことことしからぬ所をと 急ぎ出でたまへば》203 ★★★
極々人目に立たずことさらに仰々しい扱いなどない寝所をとお望みになり急いでお出になるので、 - 《大臣にも聞こえたまはず 御供にも睦ましき限りしておはしましぬ》203
左大臣にも詳細は伝えず、お供にも心許せる者だけを連れてお出かけになった。 - 《にはかに とわぶれど 人も聞き入れず》204
「そんな急に」と家の者は当惑するが、使いの者までもが取り合わず、 - 《寝殿の東面払ひあけさせて かりそめの御しつらひしたり》205
寝殿の東半分をすっかりあけ払わせ、急場のご寝所をこしらえた。 - 《水の心ばへなど さる方にをかしくしなしたり》206
遣水の配置の妙など、立派に趣き深いしつらえとなっている。 - 《田舎家だつ柴垣して 前栽など心とめて植ゑたり》207
田舎家風をよそおった柴垣をめぐらせ、庭の草木など取り合わせに意を配って植えてある。 - 《風涼しくて そこはかとなき虫の声々聞こえ 蛍しげく飛びまがひて をかしきほどなり》208
風が涼しくどこで鳴くともわからぬ様々な虫の鳴き音が聞こえ、蛍があまた飛び交い興をそそる頃合である。 - 《人びと 渡殿より出でたる泉にのぞきゐて 酒呑む》209
供の者らは渡り廊下の下をくぐって流れる泉を見下ろす場所に座して酒をのむ。 - 《主人も肴求むと こゆるぎのいそぎありくほど 君はのどやかに眺めたまひて》210 ★☆☆
主人の紀伊守も風俗歌の主人がゆるぎの磯を酒の肴を求めてまわったようにあちこち酒宴の準備に立ち回っている間、光の君はあたりを心のどかにお眺めになって、 - 《かの 中の品に取り出でて言ひし この並ならむかしと思し出づ》210
あの時の左馬頭たちらが中の品として特に取り上げたのは、この家格あたりなのだろうと思い出しになった。 - 《思ひ上がれる気色に聞きおきたまへる女なれば ゆかしくて耳とどめたまへるに》211
伊予介の後妻は自分こそ貴人の妻にふさわしい女だと高望みしている様子だとかねがね聞き及んでいた娘なので、どんな女性か知りたくて聞き耳を立てていらっしゃると、 - 《この西面にぞ人のけはひする》211
この建物の西廂の間に女たちの気配がする。 - 《衣の音なひはらはらとして 若き声どもにくからず》212
衣擦れの音がさらさらとして、若い女たちの声がするのもまんざら悪くはないが、
- 《さすがに忍びて 笑ひなどするけはひ ことさらびたり》212
さすがにこちらを気にして声をひそめて笑ったりする様子は不自然さを否めない。 - 《格子を上げたりけれど 守 心なし とむつかりて下しつれば》213
格子を上げ立てると、紀伊守が不用意だと小言を言うので下ろすことになり、 - 《火灯したる透影 障子の上より漏りたるに やをら寄りたまひて 見ゆや と思せど 隙もなければ しばし聞きたまふに》213
火が点って人影が襖障子の上から漏れ出たので、光源氏はそっとお寄りになり見えるかしらと期待されたが襖は隙間もないので、しばらく聞き耳を立てていらっしゃると、 - 《この近き母屋に集ひゐたるなるべし》213
この母屋のうちでもすぐ間近に女たちが集っているらしい、 - 《うちささめき言ふことどもを聞きたまへば わが御上なるべし》213
ひそひそとささめくことどもをお聞きになってみると、どうやらご自身のことのようであった。 - 《いといたうまめだちて まだきに やむごとなきよすが定まりたまへるこそ さうざうしかめれ》214
「極々まじめなお方で、まだうら若い身空でもう立派なご身分の奥方が決まっていらっしゃるなんて、つまらないでしょうね」 - 《されどさるべき隈には よくこそ 隠れ歩きたまふなれ など言ふにも》215
「けれどちゃんと立派な隠し妻があって、よく忍んでお通いだとか」など言うにつけ、 - 《思すことのみ心にかかりたまへば まづ胸つぶれて》216
胸におさめた藤壺との一件ばかりが心にかかっておられるので、まづ胸がつぶれて - 《かやうのついでにも 人の言ひ漏らさむを 聞きつけたらむ時 などおぼえたまふ》216
「こうした機会にも誰か言い漏らすようなことがあって、耳にすることになったら」などとぞっとなさる。 - 《ことなることなければ 聞きさしたまひつ》217
しかしながら別段興味をそそるものでもなかったので、途中で聞くのをお止しになった。 - 《式部卿宮の姫君に朝顔奉りたまひし歌などを すこしほほゆがめて語るも聞こゆ》218
式部卿宮の姫君に朝顔を差し上げた折りの歌などを、得意げに尾ひれをつけて語るのも聞こえる。 - 《くつろぎがましく 歌誦じがちにもあるかな なほ見劣りはしなむかし と思す》219
「気をゆるめるにも程があり人の秘め歌までも遠慮なく朗々と読み上げそうな勢いだな、女房がこれでは主人も会えばやはりがっかりするだろうな」とお思いになる。 - 《守出で来て 灯籠掛け添へ 灯明くかかげなどして 御くだものばかり参れり》220
紀伊守が出てきて、灯籠の数を増やし大殿油の灯をあかるくして、口直し程度の肴ばかりをお出しする。 - 《とばり帳も いかにぞは さる方の心もとなくては めざましき饗応ならむ とのたまへば》221
「とばり帳の方もどんなものだえ。そっち方面がこと欠くようでは、礼を逸したたもてなしぞえ」とおっしゃると、 - 《何よけむとも えうけたまはらず と かしこまりてさぶらふ》222 ★☆☆
「何よけむとお聞きしようにも、ご用意できませんで」と恐縮して控えている。 - 《端つ方の御座に 仮なるやうにて大殿籠もれば 人びとも静まりぬ》223
縁側の御座所で、仮寝のようにしてお休みになられると、供の者たちも寝静まった。 - 《主人の子ども をかしげにてあり 童なる 殿上のほどに御覧じ馴れたるもあり 伊予介の子もあり》224
主人の子供たちはかわいげな様子である。童の身ながら殿上の間あたりでよくお見かけになっているの子供もいる。伊予介の子もいる。 - 《あまたある中に いとけはひあてはかにて 十二三ばかりなるもあり》225
子が大勢ある中で、たいそう見た目に品のよい、十二三くらいの子もいる。 - 《いづれかいづれ など問ひたまふに》226
「どの子が実子で、宮の子はどれ」などとお尋ねになると、 - 《これは 故衛門督の末の子にて いとかなしくしはべりけるを 幼きほどに後れはべりて 姉なる人のよすがに かくてはべるなり》227
「これは今は亡き衛門督の末の子でずいぶんかわいがっておいででしたが、幼いうちに先立たれまして、姉にあたる人の縁でここにこうしている次第です。 - 《才などもつきはべりぬべく けしうははべらぬを》228
学問などもものになりそうで、血筋も悪くないので、 - 《殿上なども思ひたまへかけながら すがすがしうはえ交じらひはべらざめる と申す》228
わたくしとしては殿上に上がることなども期待しておりますが、やすやすとは出仕もならない様子でございます」とお答え申し上げる。 - 《あはれのことや この姉君や まうとの後の親》229
「かわいそうに。この子の姉上が、そなたの後の母親なんだね」 - 《さなむはべると申すに》229
「左様ではございます」と申し上げると、 - 《似げなき親をも まうけたりけるかな》230
「不似合いな親をももらい受けたものだな。 - 《主上にも聞こし召しおきて 宮仕へに出だし立てむと漏らし奏せし いかになりにけむと いつぞやのたまはせし》230
帝もお聞きあそばされて『衛門督が宮仕えに送りだす意をそれとなく奏しておった件、いかなる仕儀となったか』といつぞや仰せになられたものだ。 - 《世こそ定めなきものなれ といとおよすけのたまふ》230
この世は実に定めのないものだな」と光源氏は世を諦観されたような口ぶりをなさる。 - 《不意に かくてものしはべるなり 世の中といふもの さのみこそ 今も昔も 定まりたることはべらね》231
「突然このようなことになったのです。男女の仲は、仰せの通り今も昔もこうと定まっていたためしがございません。 - 《中についても 女の宿世は浮かびたるなむ あはれにはべる など聞こえさす》231
別けても女の運命は浮き河竹で不憫でございます」などと申し上げる。 - 《伊予介は かしづくや 君と思ふらむな》232
「伊予介は大事にしているのか。主君と崇めておろうな」 - 《いかがは 私の主とこそは思ひてはべるめるを 好き好きしきことと なにがしよりはじめて うけひきはべらずなむ と申す》233
「どうしてどうして。うちうちの主人と奉ってはおりますようですが、あまりの熱の入れように、わたくしをはじめみな承服ならぬ次第で」と申し上げる。 - 《さりとも まうとたちのつきづきしく今めきたらむに おろしたてむやは》234
「といって、そなたたちのような年恰好の近い今時の若者と人交わりさせるものかね。 - 《かの介は いとよしありて気色ばめるをや など 物語したまひて》234
あの介はなかなか素養もあって好色ぶりが顔にも出てるからな」などとお話になって、 - 《いづかたにぞ》235
「いづれでお休みか」 - 《皆 下屋におろしはべりぬるを えやまかりおりあへざらむ と聞こゆ》235
「みな下屋に下げさせたのですが、みなは下がり切らないようです」と申し上げる。 - 《酔ひすすみて 皆人びと簀子に臥しつつ 静まりぬ》236
酒の酔いが進んで、一行はみな濡れ縁で横になり寝静まった。