帚木10 博士の娘
フレーズ対訳
帚木 フレーズ対訳 第10章
- 《式部がところにぞ けしきあることはあらむ すこしづつ語り申せ と責めらる》158
(頭中将)「式部のところにこそ変わった話があるだろう。少しずつ順にお話し申し上げよ」と急き立てになる。 - 《下が下の中には なでふことか 聞こし召しどころはべらむ と言へど》159
「下の下の分際では、どういう内容をもってお聞きがいある話といたせましょう」と言うが、 - 《頭の君 まめやかに 遅し と責めたまへば 何事をとり申さむと思ひめぐらすに》159
頭中将の君はまじめな顔で「遅いぞ」と詰め寄りになるので、どんな話を持ち出し申そうかと思案したのちに、 - 《まだ文章生にはべりし時 かしこき女の例をなむ見たまへし》160
「まだ文章生でございました時に、そら恐ろしい女とはこういうものなのだという例を体験をいたしました。 - 《かの 馬頭の申したまへるやうに 公事をも言ひあはせ 私ざまの世に住まふべき心おきてを思ひめぐらさむ方もいたり深く》161
先に左馬頭の申されましたように、公事をも相談し、私的な生活面での役立つ心得をおもんぱかる点でも造詣深く、 - 《才の際なまなまの博士恥づかしく すべて口あかすべくなむはべらざりし》161
学問の程はなまなかの博士をば顔色なからしめず、いっさい口をはさむ余地を与えないのでした。 - 《それは ある博士のもとに学問などしはべるとて まかり通ひしほどに》162
そのいきさつは、ある博士のもとに漢文学などをいたそうと通っていました時に、 - 《主人のむすめども多かりと聞きたまへて はかなきついでに言ひ寄りてはべりしを》162
師である主人には娘がたくさんいると聞きおよびまして、ふとした機会に言いよりましたところ、 - 《親聞きつけて 盃持て出でて わが両つの途歌ふを聴けとなむ 聞こえごちはべりしかど》163 ★☆☆
親が聞きつけ杯を持ち出して、「わがふたつの途歌うを聴け」と訥々と諳んじになるのが聞こえて参りましたが、 - 《をさをさうちとけてもまからず かの親の心を憚りて さすがにかかづらひはべりしほどに》163
ろくすっぽ打ち解けた気分で出かけてもゆかず、親の心情を気遣ってさすがによしみは絶やさずいましたうちには、 - 《いとあはれに思ひ後見 寝覚の語らひにも 身の才つき 朝廷に仕うまつるべき道々しきことを教へて》164
女がたいそう愛情深く世話をしますこと、寝覚めの床での睦言にも身に教養が備わるような話や朝廷にお仕えする上で心得るべき専門的な教学を教えるし、 - 《いときよげに消息文にも仮名といふもの書きまぜず むべむべしく言ひまはしはべるに》164
じつに清廉な筆遣いで寄越す消息文にも女文字など一字もまぜず理路整然とした言葉遣いをいたしますので、 - 《おのづからえまかり絶えで その者を師としてなむ わづかなる腰折文作ることなど習ひはべりしかば》164
おのずと通うことも絶えないで、その者を師として下手な漢詩文を作ることを習い覚えましたゆえ、 - 《今にその恩は忘れはべらねど》165
今にその学恩は忘れてはおりませぬが、 - 《なつかしき妻子とうち頼まむには 無才の人 なま悪ろならむ振る舞ひなど見えむに 恥づかしくなむ見えはべりし》165
心懐かしい妻として信頼するには、菲才の身では、至らない振る舞いなどいつ見破られるやもしれず気恥ずかしいくらい立派に見えすぎたのです。 - 《まいて君達の御ため はかばかしくしたたかなる御後見は 何にかせさせたまはむ》166
まして君達の御ためには、実務的でしっかり者のお世話役はどうしてなさることがありましょう。 - 《はかなし 口惜し とかつ見つつも ただわが心につき 宿世の引く方はべるめれば》166
心から頼み切れないがっかりだと思いながらも、ただもう女が気に入り、前世からの縁に引かれる面があるように思われるものですから、 - 《男しもなむ 仔細なきものははべめる と申せば》166
男こそは仔細なき代物でしょう」と申すと、 - 《残りを言はせむとて さてさてをかしかりける女かな とすかいたまふを》167
続きを言わせようとして「はてさておもしろい女だな」と、頭中将がいい気にさせておやりになるが、 - 《心は得ながら 鼻のわたりをこづきて語りなす》167
式部丞はおだてと心得ながら鼻のあたりを変にぴくつかせながら話の仕上げを行った。 - 《さて いと久しくまからざりしに もののたよりに立ち寄りてはべれば》168
「さて、すっかり足が遠のいていたのですが、あるよんどころない事情があって立ち寄りましたところ、 - 《常のうちとけゐたる方にははべらで 心やましき物越しにてなむ逢ひてはべる》168
いつもの気安く過ごした部屋ではございませんで、じれったい物越しでの対面なのです。 - 《ふすぶるにやと をこがましくも また よきふしなりとも思ひたまふるに》169
焼いているのかと滑稽に感じる一方で、離縁に持ってこいの機会だと思いますのに、 - 《このさかし人はた 軽々しきもの怨じすべきにもあらず 世の道理を思ひとりて恨みざりけり》169
この賢女はいかにも軽々と嫉妬口にする様子もみせず、男と女の情理をわきまえ知って恨んだりいたしません。 - 《声もはやりかにて言ふやう 月ごろ 風病重きに堪へかねて 極熱の草薬を服して いと臭きによりなむ え対面賜はらぬ》170
声もせかせかした調子で言うには、「この幾月か風病のひどさに耐えかねて、極熱冷ましの薬草を服してひどく臭きがゆえ対面しいたしかねます。 - 《目のあたりならずとも さるべからむ雑事らは承らむ と いとあはれにむべむべしく言ひはべり》170
面前ならずとも、妻のいたすべき雑用などは承ります」と、とても心を込めながら理屈然と述べ立てるのです。 - 《答へに何とかは ただ承りぬとて 立ち出ではべるに さうざうしくやおぼえけむ》171
返事に何と言えましょう、ただ「わかりました」と坐を立って出ようとしますにものさびしく思えたのでしょう、 - 《この香失せなむ時に立ち寄りたまへ と高やかに言ふを 聞き過ぐさむもいとほし しばしやすらふべきに はたはべらねば》171
「このにおいが消えました時にまたお立ち寄りください」と、声高に言うのを聞き流すのも気の毒ながら、しばしなりとくつろいでいられる状況ではさらさらございませんで、 - 《げにそのにほひさへ はなやかにたち添へるも術なくて 逃げ目をつかひて》171
実際そのにおいまでぷんぷんと纏いつくもせん方なくて、逃げ目を使い、 - 《ささがにのふるまひしるき夕暮れにひるま過ぐせといふがあやなさ》172
蜘蛛が巣作りするそのふるまい方で私がまた来ることはすでにわかっているはずの夕暮れだというのに、蒜(ヒル)のにおいが消えるまで昼間を待ち過ごせと言うとは理屈にあわぬではないか - 《いかなることつけぞやと 言ひも果てず走り出ではべりぬるに 追ひて》172
においが消えたらなどと遭いたくない口実をよく言えたものだ」と言いも終わらぬうちに走り出ましたところ、すぐ後を追って、 - 《逢ふことの夜をし隔てぬ仲ならばひる間も何かまばゆからまし》173
お会いするのが一夜も間をあけられぬほど愛し合う仲であるならば昼間であろうと蒜のにおいがしようとどうしていたたまれない気になりましょう - 《さすがに口疾くなどははべりき と しづしづと申せば》173
さすがに間髪入れぬ詠みぶりではありましたよ」としずしず申しますと、 - 《君達あさましと思ひて 嘘言 とて笑ひたまふ》174
君達はよくもしゃあしゃあと抜かしたものだとあきれはてて、「こしらえごとだ」とお笑いになる。 - 《いづこのさる女かあるべき おいらかに鬼とこそ向かひゐたらめ むくつけきこと と爪弾きをして》175
「どこぞの子女にそんなのがいよう。いっそのこと鬼と暮らしたがよかろう。気味が悪いと言った」と爪弾きをして、 - 《言はむ方なし と 式部をあはめ憎みて すこしよろしからむことを申せ と責めたまへど》175
「何とも評しようがないな」と式部を小馬鹿にし腐して、「もっと実のある話を申せ」と頭中将はお責めになるが、 - 《これよりめづらしきことはさぶらひなむや とて をり 》176
「これより珍しい話がございましょうか」と黙然とすましこんでいる。