帚木十二章 中川へ方違え

2020-02-24

解読編

帚木 原文 現代語訳 第12章

からうして今日けふのけしきもなほ  かくのみもりさぶらひたまふ  大殿おほとのこころいとほしければまかでたまへ  おほかたのしきひとのけはひもけざやかにけたかみだれたるところまじら  なほこれこそ はかのひとびとのてがたくでしまめびとにはたのまれぬべけれとおぼすものか  あまりうるはしきおんありさまのとけがたくづかしげにおもひしづまりたまへ を さうざうしくてちゆうごんきみなかつかさなどやうのおしなべたらぬ若人わかうどどもにたはぶごとなどのたまひつつあつさにみだれたまへるおんありさまを るかひありとおもひきこえた  大臣おとどわたりたまひ  かくうちとけたまへれば、ちやうへだてておはしましておんものがたりこえたまふを あつきにとにがみたまへ  ひとびとわら  あなかまとて脇息けふそくりおは  いとやすらかなるおんひなり  くらくなるほどに 今宵こよひ 中神なかがみ 内裏うちよりはふたがりてはべりけり」と  さかし れいみたまふかたなりけ  でうゐんにもおなすぢにて いづくにかたがへむ。いとなやましきにとて大殿おほとのもれ  いとしきことなり  これかれ  紀伊きのかみにてしたしくつかうまつるひと中川なかがはのわたりなるいへなむ このころみづせきれてすずしきかげにはべると  いとよかなり なやましきに うしながられつべからむところをとのたま  しのしのびのおんかたたがどころはあまたありぬべけれ  ひさしくほどわたりたまへるに 方塞かたふたげてひきたがほかざまへとおぼさむ  いとほしきなるべ  紀伊きのかみおほごとたまへば うけたまはりながら退しりぞきて 伊予いよのかみ朝臣あそむいへつつしむことはべりて にようばうなむまかりうつれるころにて せばところにはべれ  なめげなることやはべら したなげ  きたまひ  その ひとちかからむなむうれしかるべ  をんなどほたびはものおそろしきここすべきを ただそのちやうのうしろ とのたまへ  げに よろしきましどころにもとてひとはしらせやる いとしのびてことさら ことことしからぬところをといそでたまへば 大臣おとどにもこえたまはず 御供おんともにもむつましきかぎりしておはしまし  にはかに わぶれど ひと  寝殿しんでんひむがしおもてはらひあけさせ  かりそめのおんしつらひした  みづこころばへなど さるかたにをかしくしなした  田舎ゐなかいへだつ柴垣しばがきして 前栽せんざいなどこころとめてゑた  かぜすずしくてそこはかとなきむしこゑごゑこえ ほたるしげくびまがひ をかしきほどな  ひとびと渡殿わたどのよりでたるいづみにのぞきゐてさけ  主人あるじさかなもとむとこゆるぎのいそ ありくほど きみはのどやかにながめたまひて かのなかしなでてひし このなみならむかしとおぼ  おもがれるしききおきたまへるむすめなれ  ゆかしくてみみとどめたまへるに この西にしおもてにぞひとのけはひす  きぬおとなひはらはらとしてわかこゑどもにくから  さすがにしのびてわらひなどするけは ことさらびた  かうげたりけれど かみ こころなしとむつかりておろしつれば ともしたる透影すきかげさうかみよりりたるに やをらりたまひて ゆやとおぼせどひまもなければ しばしきたまふに このちか母屋もやつどひゐたるなるべ  うちささめきふことどもをきたまへば わが御上おんうへなるべ  いといたうまめだちて まだきにやむごとなきよすがさだまりたまへるこそ さうざうしかめ  されどさるべきくまには よくこそかくありきたまふなれなどふに  おぼすことのみこころにかかりたまへば まづむねつぶれ  かやうのついでにもひとらさむを きつけたらむときなどおぼえたま  ことなることなければ きさしたまひ  しききやうのみや姫君ひめぎみ朝顔あさがほたてまつりたまひしうたなど  すこしほほゆがめてかたるも  くつろぎがましくうたじがちにもあるか  なほおとりはしなむかしとおぼ  かみて とうあかくかかげなどして おんくだものばかりまゐ  とばりちやうもいかにぞは さるかたこころもとなくて  めざましき饗応あるじならむとのたまへ  なによけむと  えうけたまはら とかしこまりてさぶら  はしかた御座おましに かりなるやうにて大殿おほとのもれば ひとびともしづまり  主人あるじどもをかしげにてあり わらはなる 殿てんじやうのほどにらんれたるもあり 伊予いよのすけもあ  あまたあるなかに いとけはひあてはかに  じふさんばかりなるもあ  いづれか いづれなどひたまふ  これは衛門ゑもんのかみすゑにていとかなしく はべりけるを をさなきほどにおくれはべりて あねなるひとのよすが かくてはべるな  ざえなどもつきはべりぬべ  けしうははべらぬ  殿てんじやうなどもおもひたまへかけなが  すがすがしうはえまじらひはべらざめるとまう  あはれのことや この姉君あねぎみや まうとののちおや さなむはべるとまう  げなきおやをもまうけたりけるか  主上うへにもこししおきて 宮仕みやづかへにだしてむとらしそうせし いかになりにけ といつぞやのたまはせ  こそさだめなきものなれ いとおよすけのたま  不意ふいにかくてものしはべるな  なかといふも  さのみこそいまむかしさだまりたることはべらね なかについても をんな宿世すくせかびたるな あはれにはべるなどこえさ  伊予いよのすけはかしづくや きみおもふらむ  いかがは わたくししゆうとこそはおもひてはべるめるを きしきことと( ) なにがしよりはじめ うけひきはべらずなむ とまう  さりとも まう たちのつきづきしくいまめきたらむにおろ たてむやは かのすけは いとよしありてしきばめるをや などものがたりしたまひ  いづかたに  みなしもにおろしはべりぬる  えやまかりおりあへざら   ]ひすすみて みなひとびと簀子すのこしつつしづまり  
難易度☆☆☆

かろうじて今日は雨もよいも持ちなおした。こうして宮中ばかりに籠ってお仕えなさっているのも、左大臣のご心中が思いやられるので内裏よりお出かけになった。ご邸一帯のたたずまいや葵の君の雰囲気も凛として気高く一点の乱れた様子もなくて、やはりこれこそがあの左馬頭たちが棄てがたく取り上げた生活力のある妻としては信のおけるに違いないとお思いになりながらも、あまりに整った麗しい御有様はうちとけがたく気づまりなほど落ち着きはらっていらっしゃるので、物足りなくて中納言の君や中務などといった人並みすぐれた若女房たちにお戯れごとをおっしゃりながら暑さで着付けを乱していらっしゃる御有様を、女房たちはうっとりする思いで見とれ申し上げている。左大臣もこちらの棟へお越しになり、このように光の君がすでにくつろいでいらっしゃるので、御几帳を隔ててお坐りになってお話を申し上げになるのを、「暑いのに」と苦い顔をなさると、房たちは笑う。「静かに」と小声で制して脇息に寄りかかりになる。実に鷹揚なおふるまいだこと。暗くなる頃に「今夜は、中神のため、内裏からお越しでは方塞がりにあたっておりました」と部屋つきの者が申し上げる。「そうでした、いつもはお避けになる方角でしたわね。」「二条院にしても同じ方角だから、どこに方違えすればよいのか。こうもけだるいのに」とおっしゃり休んでおしまいになる。「とんでもないことです」と、あの女房もこの女房もおいさめ申し上げる。「紀伊守で邸へ親しくお仕えしている人の中川あたりにある家が、近ごろ川の水を堰き入れて、涼しく人目のつかないしのぎ場所でございます」とお耳に入れる。「まことによさそうだな。けだるいから、牛車のまま入って構わなそうなところを」とお望みになる。人目を避けたお忍びの方違え所は左大臣ご自身もあまたお持ちのはずだが、ひさかたぶりに婿殿がお出ましになったのに方塞がりのため予期せずよそへ行ってしまわれるのかと左大臣がお考えになってはと、若君ははなはだお気の毒になられたに違いない。紀伊守に邸を借りる旨仰せ言をたまわれたところ、紀伊守はうけたまわってはみたもののご前を引きさがり、「伊予守の朝臣の家で忌みごとがありまして、女どもが移り住んでおる時分で、手狭ですので失礼なことでもございましては」と下々にこぼしているのを、お聞きになって、「そんなふうに、人が間近なのが安穏でいい。女っ気のない仮寝は無闇に恐ろしい気持ちがするものだ。ただその几帳の後に寝るだけで」とおっしゃるので、「ごもっともです。不出来でない御座所にでもなるのでしたら」と使いを走らせる。極々人目に立たずことさらに仰々しい扱いなどない寝所をとお望みになり急いでお出になるので、左大臣にも詳細は伝えず、お供にも心許せる者だけを連れてお出かけになった。「そんな急に」と家の者は当惑するが、使いの者までもが取り合わず、寝殿の東半分をすっかりあけ払わせ、急場のご寝所をこしらえた。遣水の配置の妙など、立派に趣き深いしつらえとなっている。田舎家風をよそおった柴垣をめぐらせ、庭の草木など取り合わせに意を配って植えてある。風が涼しくどこで鳴くともわからぬ様々な虫の鳴き音が聞こえ、蛍があまた飛び交い興をそそる頃合である。供の者らは渡り廊下の下をくぐって流れる泉を見下ろす場所に座して酒をのむ。主人の紀伊守も風俗歌の主人がゆるぎの磯を酒の肴を求めてまわったようにあちこち酒宴の準備に立ち回っている間、光の君はあたりを心のどかにお眺めになって、あの時の左馬頭たちらが中の品として特に取り上げたのは、この家格あたりなのだろうと思い出しになった。伊予介の後妻は自分こそ貴人の妻にふさわしい女だと高望みしている様子だとかねがね聞き及んでいた娘なので、どんな女性か知りたくて聞き耳を立てていらっしゃると、この建物の西廂の間に女たちの気配がする。衣擦れの音がさらさらとして、若い女たちの声がするのもまんざら悪くはないが、さすがにこちらを気にして声をひそめて笑ったりする様子は不自然さを否めない。格子を上げ立てると、紀伊守が不用意だと小言を言うので下ろすことになり、火が点って人影が襖障子の上から漏れ出たので、光源氏はそっとお寄りになり見えるかしらと期待されたが襖は隙間もないので、しばらく聞き耳を立てていらっしゃると、この母屋のうちでもすぐ間近に女たちが集っているらしい、ひそひそとささめくことどもをお聞きになってみると、どうやらご自身のことのようであった。「極々まじめなお方で、まだうら若い身空でもう立派なご身分の奥方が決まっていらっしゃるなんて、つまらないでしょうね」「けれどちゃんと立派な隠し妻があって、よく忍んでお通いだとか」など言うにつけ、胸におさめた藤壺との一件ばかりが心にかかっておられるので、まづ胸がつぶれて「こうした機会にも誰か言い漏らすようなことがあって、耳にすることになったら」などとぞっとなさる。しかしながら別段興味をそそるものでもなかったので、途中で聞くのをお止しになった。式部卿宮の姫君に朝顔を差し上げた折りの歌などを、得意げに尾ひれをつけて語るのも聞こえる。「気をゆるめるにも程があり人の秘め歌までも遠慮なく朗々と読み上げそうな勢いだな、女房がこれでは主人も会えばやはりがっかりするだろうな」とお思いになる。紀伊守が出てきて、灯籠の数を増やし大殿油の灯をあかるくして、口直し程度の肴ばかりをお出しする。「とばり帳の方もどんなものだえ。そっち方面がこと欠くようでは、礼を逸したたもてなしぞえ」とおっしゃると、「何よけむとお聞きしようにも、ご用意できませんで」と恐縮して控えている。縁側の御座所で、仮寝のようにしてお休みになられると、供の者たちも寝静まった。主人の子供たちはかわいげな様子である。童の身ながら殿上の間あたりでよくお見かけになっているの子供もいる。伊予介の子もいる。「どの子が実子で、宮の子はどれ」などとお尋ねになると、「これは今は亡き衛門督の末の子でずいぶんかわいがっておいででしたが、幼いうちに先立たれまして、姉にあたる人の縁でここにこうしている次第です。学問などもものになりそうで、血筋も悪くないので、わたくしとしては殿上に上がることなども期待しておりますが、やすやすとは出仕もならない様子でございます」とお答え申し上げる。「かわいそうに。この子の姉上が、そなたの後の母親なんだね」「左様ではございます」と申し上げると、「不似合いな親をももらい受けたものだな。帝もお聞きあそばされて『衛門督が宮仕えに送りだす意をそれとなく奏しておった件、いかなる仕儀となったか』といつぞや仰せになられたものだ。この世は実に定めのないものだな」と光源氏は世を諦観されたような口ぶりをなさる。「突然このようなことになったのです。男女の仲は、仰せの通り今も昔もこうと定まっていたためしがございません。別けても女の運命は浮き河竹で不憫でございます」などと申し上げる。「伊予介は大事にしているのか。主君と崇めておろうな」「どうしてどうして。うちうちの主人と奉ってはおりますようですが、あまりの熱の入れように、わたくしをはじめみな承服ならぬ次第で」と申し上げる。「といって、そなたたちのような年恰好の近い今時の若者と人交わりさせるものかね。あの介はなかなか素養もあって好色ぶりが顔にも出てるからな」などとお話になって、「いづれでお休みか」
「みな下屋に下げさせたのですが、みなは下がり切らないようです」と申し上げる。酒の酔いが進んで、一行はみな濡れ縁で横になり寝静まった。

フレーズ対訳

帚木 フレーズ対訳 第12章

  • 《からうして今日は日のけしきも直れり》187
    かろうじて今日は雨もよいも持ちなおした。
  • 《かくのみ籠もりさぶらひたまふも 大殿の御心いとほしければ まかでたまへり》188
    こうして宮中ばかりに籠ってお仕えなさっているのも、左大臣のご心中が思いやられるので内裏よりお出かけになった。
  • 《おほかたの気色 人のけはひも けざやかにけ高く 乱れたるところまじらず》189
    ご邸一帯のたたずまいや葵の君の雰囲気も凛として気高く一点の乱れた様子もなくて、
  • 《なほ これこそは かの 人びとの捨てがたく取り出でしまめ人には頼まれぬべけれ と思すものから》189
    やはりこれこそがあの左馬頭たちが棄てがたく取り上げた生活力のある妻としては信のおけるに違いないとお思いになりながらも、
  • 《あまりうるはしき御ありさまの とけがたく恥づかしげに思ひしづまりたまへるを》189
    あまりに整った麗しい御有様はうちとけがたく気づまりなほど落ち着きはらっていらっしゃるので、
  • 《さうざうしくて 中納言の君 中務などやうの おしなべたらぬ若人どもに 戯れ言などのたまひつつ 暑さに乱れたまへる御ありさまを》189
    物足りなくて中納言の君や中務などといった人並みすぐれた若女房たちにお戯れごとをおっしゃりながら暑さで着付けを乱していらっしゃる御有様を、
  • 《見るかひありと思ひきこえたり》189
    女房たちはうっとりする思いで見とれ申し上げている。
  • 《大臣も渡りたまひて うちとけたまへれば 御几帳隔てておはしまして 御物語聞こえたまふを》190
    左大臣もこちらの棟へお越しになり、光の君がすでにくつろいでいらっしゃるので、御几帳を隔ててお坐りになってお話を申し上げになるのを、
  • 《暑きに とにがみたまへば 人びと笑ふ》190
    「暑いのに」と苦い顔をなさると、房たちは笑う。
  • 《あなかま とて 脇息に寄りおはす》191
    「静かに」と小声で制して脇息に寄りかかりになる。
  • 《いとやすらかなる御振る舞ひなりや》192
    実に鷹揚なおふるまいだこと。
  • 《暗くなるほどに 今宵 中神 内裏よりは塞がりてはべりけり と聞こゆ》193
    暗くなる頃に「今夜は、中神のため、内裏からお越しでは方塞がりにあたっておりました」と部屋つきの者が申し上げる。
  • 《さかし 例は忌みたまふ方なりけり》194★★★
    「そうでした、いつもはお避けになる方角でしたわね。」
  • 《二条の院にも同じ筋にて いづくにか違へむ いと悩ましきに とて大殿籠もれり》195
    「二条院にしても同じ方角だから、どこに方違えすればよいのか。こうもけだるいのに」とおっしゃり休んでおしまいになる。
  • 《いと悪しきことなり とこれかれ聞こゆ》196
    「とんでもないことです」と、あの女房もこの女房もおいさめ申し上げる。
  • 《紀伊守にて親しく仕うまつる人の 中川のわたりなる家なむ このころ水せき入れて 涼しき蔭にはべる と聞こゆ》197
    「紀伊守で邸へ親しくお仕えしている人の中川あたりにある家が、近ごろ川の水を堰き入れて、涼しく人目のつかないしのぎ場所でございます」とお耳に入れる。
  • 《いとよかなり 悩ましきに 牛ながら引き入れつべからむ所を とのたまふ》198
    「まことによさそうだな。けだるいから、牛車のまま入って構わなそうなところを」とお望みになる。
  • 《忍び忍びの御方違へ所は あまたありぬべけれど》199★★☆
    人目を避けたお忍びの方違え所は左大臣ご自身もあまたお持ちのはずだが、
  • 《久しくほど経て渡りたまへるに 方塞げて ひき違へ他ざまへと思さむは いとほしきなるべし》199
    ひさかたぶりに婿殿がお出ましになったのに方塞がりのため予期せずよそへ行ってしまわれるのかと左大臣がお考えになってはと、若君ははなはだお気の毒になられたに違いない。
  • 《紀伊守に仰せ言賜へば》200 ★☆☆
    紀伊守に邸を借りる旨仰せ言をたまわれたところ、
  • 《承りながら 退きて 伊予守の朝臣の家に慎むことはべりて 女房なむまかり移れるころにて》200
    紀伊守はうけたまわってはみたもののご前を引きさがり、「伊予守の朝臣の家で忌みごとがありまして、女どもが移り住んでおる時分で、
  • 狭き所にはべれば なめげなることやはべらむ と 下に嘆くを》200
    手狭ですので失礼なことでもございましては」と下々にこぼしているのを、
  • 《聞きたまひて その人近からむなむ うれしかるべき 女遠き旅寝は もの恐ろしき心地すべきを》201 ★★★
    お聞きになって、「そんなふうに、人が間近なのが安穏でいい。女っ気のない仮寝は無闇に恐ろしい気持ちがするものだ。
  • 《ただその几帳のうしろに とのたまへば》201
    ただその几帳の後に寝るだけで」とおっしゃるので、
  • 《げに よろしき御座所にも とて 人走らせやる》202 ★☆☆
    「ごもっともです。不出来でない御座所にでもなるのでしたら」と使いを走らせる。
  • 《いと忍びて ことさらにことことしからぬ所をと 急ぎ出でたまへば》203 ★★★
    極々人目に立たずことさらに仰々しい扱いなどない寝所をとお望みになり急いでお出になるので、
  • 《大臣にも聞こえたまはず 御供にも睦ましき限りしておはしましぬ》203
    左大臣にも詳細は伝えず、お供にも心許せる者だけを連れてお出かけになった。
  • 《にはかに とわぶれど 人も聞き入れず》204
    「そんな急に」と家の者は当惑するが、使いの者までもが取り合わず、
  • 《寝殿の東面払ひあけさせて かりそめの御しつらひしたり》205
    寝殿の東半分をすっかりあけ払わせ、急場のご寝所をこしらえた。
  • 《水の心ばへなど さる方にをかしくしなしたり》206
    遣水の配置の妙など、立派に趣き深いしつらえとなっている。
  • 《田舎家だつ柴垣して 前栽など心とめて植ゑたり》207
    田舎家風をよそおった柴垣をめぐらせ、庭の草木など取り合わせに意を配って植えてある。
  • 《風涼しくて そこはかとなき虫の声々聞こえ 蛍しげく飛びまがひて をかしきほどなり》208
    風が涼しくどこで鳴くともわからぬ様々な虫の鳴き音が聞こえ、蛍があまた飛び交い興をそそる頃合である。
  • 《人びと 渡殿より出でたる泉にのぞきゐて 酒呑む》209
    供の者らは渡り廊下の下をくぐって流れる泉を見下ろす場所に座して酒をのむ。
  • 《主人も肴求むと こゆるぎのいそぎありくほど 君はのどやかに眺めたまひて》210 ★☆☆
    主人の紀伊守も風俗歌の主人がゆるぎの磯を酒の肴を求めてまわったようにあちこち酒宴の準備に立ち回っている間、光の君はあたりを心のどかにお眺めになって、
  • 《かの 中の品に取り出でて言ひし この並ならむかしと思し出づ》210
    あの時の左馬頭たちらが中の品として特に取り上げたのは、この家格あたりなのだろうと思い出しになった。
  • 《思ひ上がれる気色に聞きおきたまへる女なれば ゆかしくて耳とどめたまへるに》211
    伊予介の後妻は自分こそ貴人の妻にふさわしい女だと高望みしている様子だとかねがね聞き及んでいた娘なので、どんな女性か知りたくて聞き耳を立てていらっしゃると、
  • 《この西面にぞ人のけはひする》211
    この建物の西廂の間に女たちの気配がする。
  • 《衣の音なひはらはらとして 若き声どもにくからず》212
    衣擦れの音がさらさらとして、若い女たちの声がするのもまんざら悪くはないが、
  • 《さすがに忍びて 笑ひなどするけはひ ことさらびたり》212
    さすがにこちらを気にして声をひそめて笑ったりする様子は不自然さを否めない。
  • 《格子を上げたりけれど 守 心なし とむつかりて下しつれば》213
    格子を上げ立てると、紀伊守が不用意だと小言を言うので下ろすことになり、
  • 《火灯したる透影 障子の上より漏りたるに やをら寄りたまひて 見ゆや と思せど 隙もなければ しばし聞きたまふに》213
    火が点って人影が襖障子の上から漏れ出たので、光源氏はそっとお寄りになり見えるかしらと期待されたが襖は隙間もないので、しばらく聞き耳を立てていらっしゃると、
  • 《この近き母屋に集ひゐたるなるべし》213
    この母屋のうちでもすぐ間近に女たちが集っているらしい、
  • 《うちささめき言ふことどもを聞きたまへば わが御上なるべし》213
    ひそひそとささめくことどもをお聞きになってみると、どうやらご自身のことのようであった。
  • 《いといたうまめだちて まだきに やむごとなきよすが定まりたまへるこそ さうざうしかめれ》214
    「極々まじめなお方で、まだうら若い身空でもう立派なご身分の奥方が決まっていらっしゃるなんて、つまらないでしょうね」
  • 《されどさるべき隈には よくこそ 隠れ歩きたまふなれ など言ふにも》215
    「けれどちゃんと立派な隠し妻があって、よく忍んでお通いだとか」など言うにつけ、
  • 《思すことのみ心にかかりたまへば まづ胸つぶれて》216
    胸におさめた藤壺との一件ばかりが心にかかっておられるので、まづ胸がつぶれて
  • 《かやうのついでにも 人の言ひ漏らさむを 聞きつけたらむ時 などおぼえたまふ》216
    「こうした機会にも誰か言い漏らすようなことがあって、耳にすることになったら」などとぞっとなさる。
  • 《ことなることなければ 聞きさしたまひつ》217
    しかしながら別段興味をそそるものでもなかったので、途中で聞くのをお止しになった。
  • 《式部卿宮の姫君に朝顔奉りたまひし歌などを すこしほほゆがめて語るも聞こゆ》218
    式部卿宮の姫君に朝顔を差し上げた折りの歌などを、得意げに尾ひれをつけて語るのも聞こえる。
  • 《くつろぎがましく 歌誦じがちにもあるかな なほ見劣りはしなむかし と思す》219
    「気をゆるめるにも程があり人の秘め歌までも遠慮なく朗々と読み上げそうな勢いだな、女房がこれでは主人も会えばやはりがっかりするだろうな」とお思いになる。
  • 《守出で来て 灯籠掛け添へ 灯明くかかげなどして 御くだものばかり参れり》220
    紀伊守が出てきて、灯籠の数を増やし大殿油の灯をあかるくして、口直し程度の肴ばかりをお出しする。
  • 《とばり帳も いかにぞは さる方の心もとなくては めざましき饗応ならむ とのたまへば》221
    「とばり帳の方もどんなものだえ。そっち方面がこと欠くようでは、礼を逸したたもてなしぞえ」とおっしゃると、
  • 《何よけむとも えうけたまはらず と かしこまりてさぶらふ》222 ★☆☆
    「何よけむとお聞きしようにも、ご用意できませんで」と恐縮して控えている。
  • 《端つ方の御座に 仮なるやうにて大殿籠もれば 人びとも静まりぬ》223
    縁側の御座所で、仮寝のようにしてお休みになられると、供の者たちも寝静まった。
  • 《主人の子ども をかしげにてあり 童なる 殿上のほどに御覧じ馴れたるもあり 伊予介の子もあり》224
    主人の子供たちはかわいげな様子である。童の身ながら殿上の間あたりでよくお見かけになっているの子供もいる。伊予介の子もいる。
  • 《あまたある中に いとけはひあてはかにて 十二三ばかりなるもあり》225
    子が大勢ある中で、たいそう見た目に品のよい、十二三くらいの子もいる。
  • 《いづれかいづれ など問ひたまふに》226
    「どの子が実子で、宮の子はどれ」などとお尋ねになると、
  • 《これは 故衛門督の末の子にて いとかなしくしはべりけるを 幼きほどに後れはべりて 姉なる人のよすがに かくてはべるなり》227
    「これは今は亡き衛門督の末の子でずいぶんかわいがっておいででしたが、幼いうちに先立たれまして、姉にあたる人の縁でここにこうしている次第です。
  • 《才などもつきはべりぬべく けしうははべらぬを》228
    学問などもものになりそうで、血筋も悪くないので、
  • 《殿上なども思ひたまへかけながら すがすがしうはえ交じらひはべらざめる と申す》228
    わたくしとしては殿上に上がることなども期待しておりますが、やすやすとは出仕もならない様子でございます」とお答え申し上げる。
  • 《あはれのことや この姉君や まうとの後の親》229
    「かわいそうに。この子の姉上が、そなたの後の母親なんだね」
  • 《さなむはべると申すに》229
    「左様ではございます」と申し上げると、
  • 《似げなき親をも まうけたりけるかな》230
    「不似合いな親をももらい受けたものだな。
  • 《主上にも聞こし召しおきて 宮仕へに出だし立てむと漏らし奏せし いかになりにけむと いつぞやのたまはせし》230
    帝もお聞きあそばされて『衛門督が宮仕えに送りだす意をそれとなく奏しておった件、いかなる仕儀となったか』といつぞや仰せになられたものだ。
  • 《世こそ定めなきものなれ といとおよすけのたまふ》230
    この世は実に定めのないものだな」と光源氏は世を諦観されたような口ぶりをなさる。
  • 《不意に かくてものしはべるなり 世の中といふもの さのみこそ 今も昔も 定まりたることはべらね》231
    「突然このようなことになったのです。男女の仲は、仰せの通り今も昔もこうと定まっていたためしがございません。
  • 《中についても 女の宿世は浮かびたるなむ あはれにはべる など聞こえさす》231
    別けても女の運命は浮き河竹で不憫でございます」などと申し上げる。
  • 《伊予介は かしづくや 君と思ふらむな》232
    「伊予介は大事にしているのか。主君と崇めておろうな」
  • 《いかがは 私の主とこそは思ひてはべるめるを 好き好きしきことと なにがしよりはじめて うけひきはべらずなむ と申す》233
    「どうしてどうして。うちうちの主人と奉ってはおりますようですが、あまりの熱の入れように、わたくしをはじめみな承服ならぬ次第で」と申し上げる。
  • 《さりとも まうとたちのつきづきしく今めきたらむに おろしたてむやは》234
    「といって、そなたたちのような年恰好の近い今時の若者と人交わりさせるものかね。
  • 《かの介は いとよしありて気色ばめるをや など 物語したまひて》234
    あの介はなかなか素養もあって好色ぶりが顔にも出てるからな」などとお話になって、
  • 《いづかたにぞ》235
    「いづれでお休みか」
  • 《皆 下屋におろしはべりぬるを えやまかりおりあへざらむ と聞こゆ》235
    「みな下屋に下げさせたのですが、みなは下がり切らないようです」と申し上げる。
  • 《酔ひすすみて 皆人びと簀子に臥しつつ 静まりぬ》236
    酒の酔いが進んで、一行はみな濡れ縁で横になり寝静まった。

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解析編

  • A<B:AはBに係る Bの情報量はAとBの合算〈情報伝達の不可逆性〉 ※係り受けは主述関係を含む
  • 〈直列型〉<:直進 :倒置 〈分岐型〉( ):迂回 +:並列 〈中断型〉φ:独立文 [ ]:挿入 :中止法
  • 〈反復型〉~AX:Aの置換X A[,B]:Aの同格B 〈分配型〉A<B|*A<C ※直列型以外は複数登録、直列型は単独使用
  • 〈主〉述:一朱二緑三青四橙五紫六水 [ ]:補 /:挿入 :分岐
  • 189「見るかひありと思ひきこえたり」:大構造
  • 189「け高く」「まじらず/並列)→「思ひしづまりたまへる」
  • 189「御ありさまのとけがたく恥づかしげに思ひしづまりたまへる/AのB連体形):
  • 189「なほこれこそ…頼まれぬべけれと思すものから」:挿入句
  • 189「さうざうしくて」→「のたまひつつ」→「乱れたまへる」
  • 189「乱れたるところまじらず」「乱れたまへる御ありさま」:対比
  • 197「家なむ…涼しき蔭にはべる」:大構造
  • 197「このころ水せき入れて」:挿入句(「入れて」は後に係る語はない)
  • 199「忍び忍びの御方違へ所はあまたありぬべけれど」:主体は光源氏ではなく左大臣。
  • 199「あまたありぬべけれど」→「思さむ」
  • 199「ひき違へ」→「(他ざまへ)の後の省略語(まかりたまひなむ、など)」
  • 201「その」→「近からむ」
  • 203「いと忍びて」→「(と)急ぎ出でたまへば」
  • 203「ことさらに」→「ことことしからぬ所を」
  • 203「大臣にも聞こえたまはず、御供にも睦ましき限りし(て)/AもBも)→「おはしましぬ」
  • 204「人も聞き入れず」→「寝殿の東面払ひあけさせて/02-205/聞き入れずで文を終止すると、何を言いたい文章か意味をなさなくなる)
  • 210「こゆるぎの」:「いそぎ」に係る枕詞的用法。「こゆるぎ」は小さく体を揺すっての意味と、「余綾の磯(よろぎのいそ)神奈川県の大磯のあたり」をかける。
  • 210「いそぎ」:準備をするの意味の「いそぐ」と、磯をかける。
  • 210「かの…言ひし」:AのB連体形
  • 213「隙もなければ」:「見えず」などが後に省略。
  • 213「この近き母屋に集ひゐたるなるべし」:挿入句。
  • 213「うちささめき言ふことどもを聞きたまへば」:挿入句を挟んだので、「(しばし)聞きたまふに」を言い換えて繰り返した。
  • 214「いといたうまめだちて」→「定まりたまへる」
  • 224「童なる」「殿上のほどに御覧じ馴れたる」:同格
  • 234「まうとたちのつきづきしく今めきたらむ/AのB連体形)→「に」

★ ★ ★

語彙編

からうして/187

「辛くして」の音便形、これまでの「からき状態(我慢してきたこと)が終わりを遂げ(「して」はその上で、)やっと、ようやくのことで。

けしき/187

見た目の様子。「気色」の呉音読み。視覚で捉えた表面にあらわれた様子。雨夜の品定めは「長雨晴れ間なきころ/005」に光源氏の曹司である桐壺で行われていた。

直れり/187

もとの真っ直ぐな状態「なほ」に戻ること。天候・病態・流罪などが旧に復する。「り」は存続。現在そうした状態が続いている。

かくのみ籠もりさぶらひたまふ/188

宮中にお籠りになる。「さぶらひ」は宮中におられる帝に対する敬意。「かくのみ」とは、雨夜の品定めの冒頭「内裏の御物忌さし続きていとど長居さぶらひたまふを/02-005」を受ける。長居は光源氏の御曹司に滞在を続けること。

大殿/188

妻の父である左大臣。左大臣に対しては、「おほいどの」の読みを立てる説もある。

いとほしけれ/188

申し訳ないと思う気持ち。「大殿にはおぼつかなく恨めしく思したれど/02-005」とあった。

まかでたまへり/188

宮中から左大臣邸に向かわれる。

おほかた/189

あたりの様子。左大臣邸全体というより葵の上の居場所。左大臣はそうした雰囲気を醸さない。

気色/189

外に表れる見た目の様子。

人の/189

一般に貴人を指す。ここでは妻の葵の上。

けはひ/189

醸し出す雰囲気。「気色」は視覚的、「けはひ」は体感。

けざやか/189

界冴(けさやか)で、境界線がくっきりしている形容。室内に入ると様子ががらりと変わるし、妻はいつも凜と張り詰めた空気に包まれていることを言う。

け高く/189

気高い。気位が高い。

かの/189

「まめ人」に懸ける解釈があるが、「人々の」では唐突過ぎる。「かの人々」でよいだろう。雨夜の品定めに集った人々、なかんずく左馬頭と頭中将を指す。

まめ人/189

雨夜の品定めで「まめ」と形容された表現は五例で、左馬頭の発言「いと口惜しくねぢけがましきおぼえだになくはただひとへにものまめやかに静かなる心のおもむきならむよるべをぞつひの頼み所には思ひおくべかりける/02-063」を指す。

には頼まれぬべけれ/189

まめ人としては信頼勝ち得ようが、自分は(光源氏)それでは窮屈だ。

ものから/189

思うものの。

うるはしき/189

端正で乱れた様子がない。

とけがたく/189

安心した状態になりにくい。心を許しにくい。

恥づかしげ/189

こちがら引け目を感じるくらいに立派な様子。

しづまり/189

心の動揺を沈静化した状態。

さうざうしくて/189

とりつくしまがなく、満たされなく思う気持ち。「て」は、満たされない思い原因で、「戯れ言などのたま」うのである。

中納言の君中務/189

葵の上付きの女房。「の君」は上臈の女房。父親が中納言であり中務とされる。ともに後に光源氏の召人(めしうど)となる。

おしなべたらぬ/189

並ではない。上玉の。身分というより女として魅力のある意味であろう。

思ひきこえたり/189

主体は明示されていないが、敬語がないことから光源氏付きの女房と思われる。「あまりうるはしき御ありさまのとけがたく恥かしげに思ひしづまりたまへるをさうざうしくて」は葵の上を見る光源氏、「暑さに乱れたまへる御ありさまを見るかひありと思ひきこえたり」は葵の上を見る光源氏を見る女房という入れ子構造になっている。

大臣/190

葵の上の父である左大臣。

かく/190

明融本にはないが、この語があると文意がはっきりするので補った。

渡りたまひ/190

葵の上と光源氏の住む建物(対の屋か)にお越しになる。

れ/190

存続「り」の已然形。すでにそういう状態になっている。

御几帳隔てて/190

葵の上と光源氏がうちとけた状態でいるようなので、遠慮して。婿である光源氏がいなければ、几帳は使わないであろう。

聞こえたまふ/190

「聞こえ」は「言ふ」の謙譲語で光源氏に対する敬意、「たまふ」は補助動詞で左大臣に対する敬意。

人びと/190

特に光源氏から戯れ言を言いかけられた中納言の君と中務であろう。この家の一番の主人である左大臣の動作を笑うことで、光源氏の戯れ言を受け入れ、左大臣や葵の上よりも光源氏に仕える意思表示をしたことになる。以後、葵の上や左大臣の動向をこれらの女房を通して知り得る立場となる。

あなかま/191

話を制止するときのかけ声。「人びと笑ふ/02-190」を受け、左大臣に気づかれては大変だと、女房たちの笑い声を制した。

脇息/191

座った状態で楽な姿勢になるためのひじかけ。口では制止ながら、自らはさらにリラックスする。

やすらかなる/192

堅苦しさや窮屈さがなく、心身ともにしなやかでのびやかな様子。

や/192

詠嘆をあらわす間助詞。

今宵/193

日中と宵が境目となって、今宵から方塞がりが開始することがわかる。

中神/193

吉凶禍福をつかさどる陰陽道の神で、己酉(つちのととり)に天から降り、東西南北のぞれぞれに五日間、北東・東南・南西・西北に六日間止まり、十六日間天に休む。六十日で一周するので、どこからどの方角に行くにしても、六十日に一回は五日ないし六日の方塞がりにあう。

内裏よりは塞がり/193

内裏から左大臣邸へ来た方角がこの神のいる方角にあたる。そのため、これを避けなければ、凶事に遇うとされていた。それを便法として嫌なところに行かず、籠もって好きなことをすることがあった。

聞こゆ/193

「言ふ」の謙譲語。「内裏よりは」とあるので、申し上げた相手は光源氏。陰陽道の専門的知識を要することなので、おそらく左大臣家付きの専門家から助言を受けた光源氏の随身が、葵の上の住まう建物の外から声を発して知らせたものと思われる。

さかし/194

指示語の「さ」+終助詞「かし/強調、念押し)。そうであったという同意表現。光源氏の随身の知らせを引き取った女房の発言。ここは葵の上が取り仕切る空間である。外からの知らせを受けるのは女房であって、直接葵の上や光源氏が引き取ることはない。この点を考慮しないがために、女房の発言がここに割り込むのは不自然と解釈されてきた。その結果、光源氏の発言ととらえ、「忌みたまふ」の主体を内裏や左大臣邸にしたり、地の文と考えるなど曲解に曲解を重ねてきたうらみがある。なおまた「さかし」は「賢し」ではない。

例は/194

いつもは、普段なら。これは光源氏の戯れ言に対する中納言の君の返しである。今宵の方違えに引っかけ、滅多に左大臣邸に来ない光源氏に対する冗談口。いつも避けておられる方角なのに、来られたと思えば方違えですのねという軽いあてつけ。こういう洒落た言葉の応酬こそが王朝時代を支える文化水準の高さをあらわす。

忌みたまふ方なりけり/194

内裏からみて左大臣邸は今宵から避ける方角であったと気づいたの意味。避ける主体は光源氏以外にないし、事実、この後方違えをするのは光源氏である。内裏や左大臣邸が「忌む」のではない。

二条の院にも/195

「前述の発言は(二条の院にも)当てはまる」等を略した表現。先の発言の話者とこの発言の話者が異なることが「にも」にも表れている。「二条の院も同じ筋にて」なら前の発話者と同じ発話者であってもおかしくはない。(河内本系・別本系は「例も…二条の院も」、青表紙系は「例は…二条の院にも」と別れる。例と二条の院はカテゴリーが揃わないので、AもBもの表現として自然さを欠くので採用できない)

いづくにか…む/195

反語で、どこにも行き場所がない。

大殿籠もれり/195

眠ってしまわれた。「久しくほど経て渡りたまへるに方塞げてひき違へ他ざまへと思さむはいとほしきなるべし/02-199」と、久しぶりにやって来ながら方違えのため他所へ行てしまわれるのかと大臣が思うとしたら気の毒だと若君は感じられたようだと説明する。ここの「大殿籠もれり」は左大臣に対するポーズなのだろう。なお、気の毒に思う対象が葵の上でなく左大臣であることは、引用で省略した従属節より明らかである。02-199で触れる。

悩ましき/195

病気のような脱力感。雨夜の品定めなどで徹夜がつづき、光源氏はひたすら眠いのだ。

悪しきこと/196

方塞がりなのに、このまま左大臣邸で光源氏が寝てしまうことに対して。方塞がりに対して悪しきと言ったのではないのは論を俟たないだろう。「今宵中神…悪しきことなり」を一人の話者とし、その間に光源氏の発言が入るなどと考えたところからボタンの掛け違いが始まったようだ。

これかれ/196

光源氏のやんちゃぶりに女房たちが世話を焼いているところ。

仕うまつる/197

左大臣に仕える。

中川のわたり/197

京極川で、今の東京極通りのあたりを流れていたと推定されている。

なる/197

にある。

涼しき蔭/197

人目に立たたずに暑さしのぎができる場所ほどの意味。造語か。

いとよかなり/198

とてもいいようだ。「なり」は人づての判断であるから伝聞。

牛ながら/198

牛車に乗ったままの状態で。

引き入れつべからむ所/198

強意「つ(終止形)」+可能「べから(べしの未然形)」可能+推量「む(連体形)」、きっと引き入れられそうな所。引き入れる対象は光源氏自身と従ってゆく一行。

忍び忍びの御方違へ所はあまたありぬべけれど/199

「御子どもあまた腹々にものしたまふ/01-171」(左大臣にはお子様方が多くのご夫人との間にいらっしゃった。)とある。左大臣にも隠し妻はあちこちにあるだろうけど。通例は光源氏を主体に考えられている。しかし、それでは、あちこち隠し妻がいるのだからそちらにゆくのも仕方ない等、逆接でのつながりが論理を失う。左大臣自身にも方違えの避ける場所としてあちこちに隠し妻があるから事情は察せられるのだが、それでもせっかく娘の元に夫がやって来たのに、すぐに方違えで出て行くのは、左大臣にたいしてさぞ気の毒に感じたろうと、話し手が推測しているのである。

ひき違へ/199

期待にそむく。予想に反する。

他ざまへ/199

後ろに「まかりたまひなむ」等の省略。

いとほしきなるべし/199

「いとほし」は弱った相手を気の毒に思う気持ち。「なるべし」は話者が光源氏の気持ちを推し量る。光源氏が方違えを無視して、このまま寝てしまおうとなされた理由として、左大臣に申し訳なくおもわれたのだろうと、語り手が推測したのである。気の毒に思う対象は、葵の上に対しても感じてはいるだろうが、忍び忍びの御方違へ場所を持つのは貴族の男性であり、文章構造上逆接が成立する対象は、左大臣と考えるほかない。「かくのみ籠もりさぶらひたまふも大殿の御心いとほしければまかでたまへり/02-188」と呼応関係にある。

仰せ言賜へば/200

仰せ言を賜った主体は一般に光源氏とされている。紀伊守は、仰せ言を受けた後、そこから退いて愚痴をはく、その愚痴を光源氏が聞くのだから、位置関係から考え、仰せ言の主体を光源氏とは別に考える方が自然である。そもそも「紀伊守にて親しく仕うまつる人の中川のわたりなる家/02-197」とあり、紀伊守は左大臣に仕える身であり、光源氏が直接命令する関係にない。加えて、光源氏は以下で読むように、できるだけ簡素な寝所を希望している。仰せ言といった公的で大上段に振りかざしたものからズレるように思う。従って、この主体は左大臣である。些末な部分のようだが、ここは実に重要な伏線に関わるところであり、この後にも言及することになる。

伊予守/200

紀伊守の父。実際は伊予守ではなく次官の伊予介であるが、任地に赴かない守の代理で任地に赴く場合は、介であっても守と称されたという。

朝臣/200

父親に対する尊称。

慎むこと/200

法事の類い。帚木の帖では最初に長雨による内裏の物忌みがあり、ついで左大臣邸の方角が方塞がりとなり、伊予介が法事でいないなど、多くの忌避に包まれた帖となっている。すでに光源氏は女性経験を持ってはいるものの、物語としては具体的に述べられていない。忌避をくぐり抜けることがイニシエーションとなって、物語の主人公として特別な位置に立つことになるのであろう。忌避をかいくぐる点では、業平と伊勢の斎宮の関係が想起されるし、物語では秘せられた藤壺との関係が空蝉との間柄を通じて語られているとも捉えられよう。

女房なむまかり移れるころ/200

伊予介の後妻である空蝉をふくめ、伊予介の女房たちが紀伊守の家に滞在中である。

なめげなること/200

光源氏に対して失礼なこと。

下に嘆く/200

紀伊守の従者たちに向かって愚痴をこぼす。

その人近からむなむ/201

「女房なむまかり移れるころにて狭き所にはべれば/02-200」を受ける。狭き場所で女房たちの近いところが。このフレーズはダブルミーニングとなっているように思う。「その人近からむなむ」と読み、「そのように、人(あるいは女房たち)が近いのが」との解釈。今ひとつは「その人」まさに空蝉自身をほのめかすとの読み。紀伊守は前者として解釈するであろうが、そこに少年っぽい不適さで人妻を寝取ろうとの意図をすでに持っていたと解釈してみたい。空蝉の父である衛門督(えもんのかみ)が娘を宮仕えに出したいとの願いを持っていたことを、光源氏は帝から聞いて知っているのである「主上にも聞こし召しおきて宮仕へに出だし立てむと漏らし奏せしいかになりにけむといつぞやのたまはせし/02-230」。そうした知識を得た後、空蝉のことを心中で考えていてもおかしくないだろう。光源氏の母、桐壺の更衣、藤壺の宮、空蝉。いずれも運命が少しずれれば、役回りは入れ替わっていてもおかしくない。かなわない藤壺への思慕に重ねながら、空蝉への思いを募らせ、その機会を光源氏は待っていたのだ。

旅寝/201

普段住んでいる場所(内裏・二条院・左大臣邸)以外で寝ること。

もの恐ろしき心地/201

土地土地の地霊に脅かされる感じ。

ただその几帳のうしろに/201

女房たちが休む際に几帳を立てるが、その後ろで眠るだけでいいの意味。空蝉たちが母屋の西を占領しているため、貴人の御座所として用意すべき母屋の南の廂を当てることができない。そのため、次善の策として東の廂が用意されるが、「いたづら臥しと思さるるに御目覚めてこの北の障子のあなたに人のけはひするを」から読み取ると、光源氏は北の簀子で寝ていたのである。そう考えると、これまで理解できなかった空蝉のもとへ行く侵入経路に矛盾がなくなる。北の廂ないしは北の簀子で寝たいとの意思表示が、「女遠き旅寝はもの恐ろしき心地すべきを」であり、「ただその几帳のうしろに」なのである。

げによろしき御座所にも/202

本当によい寝場所ですねと解釈されている。しかし、「なめげなることやはべらむ/02-200」と恐れている紀伊守が、冗談にしろ自分の家をよい寝場所だと、貴人に対して答えることは考えられない。「よろしき御座所にもなればよいのですが、そうなりますやら……」と、謙遜するのが自然である。「にも」のあとには「ならむ」ではなく、「なれば幸ひならむ」等が続く。以上が表面的な解釈。
しかし、以後の紀伊守の態度を観察すると、どうも空蝉を光源氏に供しようとしているかのような態度が見て取れる。父である伊予介に対する批判的態度がそうさせるのか。子供の中に殿上童を出している関係や、さらに空蝉の弟である小君も殿上童にする意図を持っていることから、紀伊守は光源氏への接近を喜んでおり、手段として空蝉を利用しようという狙いがあったのではないか。そう考えると、ここは謙譲表現であると同時に、しめしめよろしき御座所にしてみましょうとの野心をふくんでいるようにも読み取れる。紀伊守の協力ないし承諾がなければ、光源氏の御座所を北の廂に置くことはできない。侵入経路については空蝉に接近してゆく過程で検討したい。

人/202

使者。光源氏一行が急遽避暑として家を使うことになったから、その準備を怠らぬようにと使者を立てた。

忍びて/203

人目を避けて。

ことさらに/203

格別に。特に注意をして。

ことことしからぬ/203

「ことことし」は事が重なる、大がかりなことが原義。大げさにならないような。

所/203

寝場所。場所として中川の家は決定しているので、この場合、光源氏の寝所のしつらえは簡素でよいとの意味。もちろんこれは、「ただその几帳のうしろに/02-201」からの伏線の続きになっている。

大臣にも聞こえたまはず/203

大臣に何を伝えなかったのか。一般には大臣に挨拶せず、すなわち、中川の紀伊守邸に行くことを大臣に伝えずと考えられているが、そんなことがあり得るだろうか。方違えを無視することはできないので、そのために左大臣邸を離れることは気持ちの面でどうあれ、親として理解しうる範囲である。しかし、方違えのことを知らせず出て行くことはあまりに非礼であろう。文章構造上もその解釈では引っかかりが出る。「いと忍びて急ぎ出でたまへば大臣にも聞こえたまはず」であれば、人目を避け急いでいたので大臣への挨拶を行わなかったと解釈するのは自然である。しかし、「ことさらにことことしからぬ所をと急ぎ出でたまへば」とある。これは大臣に話すと「ことことしき所」になってしまうので大臣へ伝えることを遠慮したと解釈すべきである。大臣としては娘婿として最大限の歓待をするように紀伊守に命じた(「仰せ言賜へ/02-200」)わけだが、、そうなると空蝉と関係を持ちたい光源氏は行動に制限が加わる。光源氏の狙いとしては、空蝉の部屋に侵入しやすいように母屋の北側に寝所を持ちたい。できれば左大臣の従者たちをつけたくないなど。寝所を簡素にしたいとの真の狙いは、空蝉に近づくことにあるのだ。従って、ここで大臣に伝えないのは、大臣がすすめる貴人にふさわしい寝所から、女近き簡素な寝所に変更したことを告げずに出て行ったのである。

にはかに/204

貴人が泊まる場所を急に準備しろと言われても紀伊守邸の家の者たちの嘆き。

人も/204

光源氏の泊まる場所をしつらえるとなると、それを実行するのは光源氏の従者たちであり、光源氏一行の到着前に仕事をすませてなければならない。ここは光源氏の従者は当然ながら、味方であるべき紀伊守の使者もが聞き入れないの意味。

寝殿/205

貴族の邸宅の中心の建物。中央に「母屋(もや)」、それを取り囲んで東西南北の四方向に「廂(ひさし)」がある。廂を取り囲んで東西南北の四方向に縁側である「簀子(すのこ)」がある。しかし、ここは雨露が溜まるので休む場所ではない。寝殿の別棟である建物として北・西・東の「対の屋(たいのや)」がある。北の対の屋は紀伊守の妻が使用する。西の対の屋は紀伊守の娘である軒端荻が使用している。東の対の屋は紀伊守が使用している。空蝉は父の後妻であり、紀伊守は敬って寝殿を提供していたのであろう。そこに貴人である光源氏一行が泊まることとなり、急遽、寝殿の東側を空けさせ、光源氏一行の使用に当て、残る寝殿の西半分を空蝉一行が使用することとなった。

東面/205

寝殿の東半分。具体的には。母屋の東半分、南の廂と簀子の東側半分、東の廂と簀子、北の廂と簀子の東側半分。光源氏は母屋の東側で寝たとされているが、それでは空蝉のもとに侵入できないし、原文とはなはだ乖離してしまう。

水の心ばへ/206

遣水の配置。

さる方に/206

立派に、その面で工夫を凝らし。

をかしく/206

王朝貴族の美意識にかなう。

しなす/206

勢力を費やした作る。

田舎家だつ/207

田舎家風を装った。簡素ながら夏は風が抜ける。ここは田舎臭いという否定語ではなく、一種の貴族趣味であろう。

柴垣/207

雑木の枝を編んで垣根としたもの。

前栽/207

庭の植え込み。

心とめて/207

留意して。心を砕いて。

風涼しくて/208

「中川のわたりなる家なむこのころ水せき入れて涼しき蔭にはべる/002-197」とあった。中川の水を遣り水として引き込んでいるために、風が夏でも涼しいようだ。

そこはかとなき/208

虫にかけて読めば、無名の(虫)となり、声々にかけて読めば、ひっそりとした鳴き音となる。後者であろうが、前者でも可。

飛びまがひて/208

飛び交い入り乱れる。飛び交いは、蛍の一個体一個体の区別ができるが、入り乱れて個体の区別ができない状態となっている。より幻想的なイメージだが、王朝人にとって蛍は霊魂のイメージも重なるので、単に視覚的に美しいだけではなく、闇が潜んでいる。

人びと/209

光源氏の従者たち。

渡殿/209

この場合、下に水の流れがあることから、寝殿と東の対屋をつなぐ屋根付きの渡り廊下であろう。屋根があるので泊まることもできた。

出でたる泉/209

泉は湧き水の場合と引き入れた水の場合があるが、「中川のわたりなる家なむ、このころ水せき入れて」とあるので、堰き止めて引き入れた水である。

のぞきゐて/209

「ゐる」は座る。

主人も/210

この邸の主人も、風俗歌(次注)の主人同様に。

肴求む/210

「玉垂れの 小瓶(をがめ)を中に据ゑて あるじはも や 肴まぎに 肴とりに こゆるぎの磯の 若布(わかめ)刈り上げに 若布刈り上げに/風俗歌 玉垂れ)を受ける。大切なのは「若布刈り上げに」の部分。若布は若女(わかめ)に通じ、「刈り上げ」は「借り上げ」に通じる。紀伊守は酒宴の肴の準備をする一方で、期せずして光源氏のために若い女を物色している最中であることを暗示する。この部分がのちの光源氏の発言「とばり張」の下準備となっている。語り手の言葉があたかも影響して話中の主人公が動くという、近代小説にはできない語りを感じる。これも言葉が予期せず後に現実化する「(言=事)構造」であろう。

ほど/210

している間。

かの/210

「かの人びと」の略、すなわち、雨夜の品定で女性論を論じた頭中将や左馬頭。

中の品/210

中流階級だが、もと上流階級ながら、時をえずして今は中流クラスでくすぶっている娘も中の品に入れるというのが、頭中将の考え。「元はやむごとなき筋なれど世に経るたづき少なく時世に移ろひておぼえ衰へぬれば心は心としてこと足らず悪ろびたることども出でくるわざなめればとりどりにことわりて中の品にぞ置くべき/02-033」また「受領と言ひて人の国のことにかかづらひ営みて品定まりたる中にもまたきざみきざみありて中の品のけしうはあらぬ選り出でつべきころほひなり/02-034」とある。

この並/210

このクラス。

思ひ上がれる気色/211

後に説明があり、亡き父(故衛門督)が宮仕えに出そうと考えていたとのことで、娘はそこで帝の正妻になろうと考えていた(「宮仕へに出だし立てむと漏らし奏せしいかになりにけむ/02-030」)。「思ひあがる」は単に気位が高いだけでなく、「はじめより我はと思ひあがりたまへる御方々めざましきものにおとしめ嫉みたまふ/01-002」でみたように、正妻となって皇子を産む気構えでいること。ここは空蝉を理解する上でのキーワードである。帝の子をもうけたいとまで思っていた娘が伊予介の後妻の地位で満足できるはずがない。光源氏を拒絶しきれず、貴種である光源氏に惹かれる要素が空蝉にはあるのだ。

女/211

空蝉のこと。

西面/211

寝殿の西側半分(母屋の西側半分、西の廂、北と南の廂の西側半分、および付随する簀子(すのこ)など)。

音なひ/212

音が聞こえること。

にくからず/212

かわいい、好ましい・

さすがに/212

そうはいってもさすがに限度があり。

忍びて笑ひ/212

周囲に聞かれないように声を押し殺すようにして笑う。

ことさらび/212

わざとらしい。光源氏にすれば、自分に気兼ねされるとほしい情報が出てこないので、好ましくないのである。

格子を上げたりけれ/213

暑い季節なので風を通すために格子を上げさせた。格子を締め切ると部屋が真っ暗になるので火を入れたのである。火を入れた云々は省略されている。

守/213

この邸の主人である紀伊守。

心なし/213

不用心だ。思慮が足りない。光源氏という貴人が泊まりに来ているので、失礼があってはならない。

下し/213

格子を下ろす。

透影/213

隙間越しに透けて見える影。

障子の上/213

「障子」は母屋を東と西に隔ている襖障子。襖障子の上は空間があいているので、空蝉たちのうごめく影が天井にぼんやりと映るのだ。ここを「障子の紙」とする説がある。障子紙は今の襖紙だから透けない。そのため、左右の障子の合わせ目から影が漏れ出ていると解釈されるが、「隙もなければ」とあり光源氏は透き見を試したがだめだったのだ。火があり、その周りに何らかの透ける紙があり、空蝉がいて、障子の上の隙間から天井にぼんやりと影がうつる。

見ゆや/213

女たちが見えるだろうか。

隙もなければ/213

障子の合わせ目がぴったり閉まって隙がないので。後に「見えざるにより」などが省略されている。隙を女との距離が近いのでと解釈するのは無理がある。

聞きたまふに/213

透き見ができなかったので、その代わりとして、中の様子をうかがうために聞き耳を立てる動作をしたこと。

聞きたまへば/213

ここは実際に音声が耳に入って来たこと。

うちささめき/213

ひそひそ小声で話すこと。「うち」はちょっと。

わが御上なるべし/213

敬語が間違っていると説明されるが、この「わが」は第三者に対して「わがこと」のように心配するとか、あの人も「わが身」を振り返るべきだなど、一人称ではなく自分のという意味の三人称で使用する表現。英語のmyではなくselfに当たる。さてまた「なるべし」は「聞きたまふに…なるべし」「聞きたまへば…なるべし」という呼応関係の中で成立している表現であるから、光源氏が推量しているのではなく、話し手が光源氏の立ち場にたって推量している表現である。ここがポイント。話し手が光源氏に対して御をつけたのであり、形は似ているが天皇が自分の行為に敬語を使う自敬表現とは別である。

べし/213

「わが御上」と断定的でないこと。

いといとうまめだちて/214

たいそう生真面目で。「いといたく世を憚り、まめだちたまひけるほど、なよびかにをかしきことはなくて/02-002」とあった。

まだきに/214

はまだ若いのに、まだその時期でもないのに。ここでは、若くて正妻を迎える年でもないのに。

やむごとなきよすが/214

左大臣の娘である妻の葵の上のこと。

さうざうしかめれ/214

そんなに早く落ち着いてしまっては、自由に恋愛もできず、物足りないだろうなということ。「めり」は直接的で視覚的、「なり」は人づてで聴覚的(次項参照)、「めり」の方がより鮮明に距離感近く感じている内容を表す。話の内容から空蝉ではなくお付きの女房の話と思われるが、内容的には主人である空蝉の気持ちを代弁している。空蝉が宮仕えの華々しい暮らしに憧れていたことがあり、せっかく高貴な身分で自由恋愛を楽しめたのにという自ら叶えられなかった願望がある。

さるべき/215

しかるべき、それ相応な、ちゃんとした。

隈/215

目立たない場所。

隠れ歩きたまふなれ/215

「なれ」は伝聞。「めり」との対比は前項参照。

思すこと/216

案じていること。藤壺との肉体関係。

ついで/216

機会。

聞きつけたらむ時/216

藤壺との関係を人がうわさをするのを自分が耳にする時が来たらどうしようかという心配。「かかる好きごとどもを末の世にも聞き伝へて軽びたる名をや流さむと忍びたまひける隠ろへごとをさへ語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ/02-001」とあり、不名誉な噂が流れることを貴族がひどく恐れたことがうかがえる。

ことなること/217

(異なること・殊なること)。特別なこと。表面的な噂話以上のものでなく、安心できたから、興味を失った。

聞きさし/217

聞くのを途中でやめる。

式部卿宮/218

親王で式部省の長官に任じられた人の称。父桐壺帝の弟で、光源氏の叔父にあたる。

姫君/218

姫君は光源氏から朝顔を贈られたことから、朝顔の姫君と呼ばれる。このエピソードは、これ以前には描かれておらず、「朝顔」の帖で回想(光源氏32才、現在17才)という形で述べられる。そのため、「かがやく日の宮」という今は失われたまぼろしの帖を想定し、そこで朝顔の姫君との歌の贈答や、藤壺との関係が描かれていたという仮説が古くからある。一方で、出来事の結果のみを描く、一種の省略技法とする解釈もある。わたしは現存する本文のみをテキストの対象と考えているので、後者の立場をとる。この一文は確かに唐突ではある。しかし、仮にこの文を省いたとしよう。すると、「思すことのみ心にかかりたまへばまづ胸つぶれてかやうのついでにも人の言ひ漏らさむを聞きつけたらむ時などおぼえたまふ/02-216」は、藤壺との関係がオープンになることを光源氏は危惧していることはわかるが、実際どの程度ことが露見する可能性があるのか、具体性が見えてこない。具体性のない文の典型が帚木の冒頭「光る源氏名のみことことしう言ひ消たれたまふ咎多かなるにいとどかかる好きごとどもを末の世にも聞き伝へて軽びたる名をや流さむと忍びたまひける隠ろへごとをさへ語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ/02-001」であろう。論じているだけで、人物が動き出していないから、物語性を欠いてしまっている。ここは帖の冒頭、雨夜の品定めという女性論へとつなぐ文章であるから、物語性を欠くことがマイナスに働くこととは言えないが、すでに物語が動き出しているこの場面では、抽象論はなじまない。具体的なエピソードがほしいところであろう。

朝顔奉りたまひし歌/218

「朝顔」の帖に、「匂ひもことに変はれる」朝顔につけて贈った歌「見し折のつゆ忘られぬ朝顔の花の盛りは過ぎやしぬらむ」とあり、朝顔の姫君の起きがけの顔を見た思い出が歌に読み込まれている。朝寝顔とあれば、前夜を共にしたことが前提である。ただし、後年、朝顔の姫君は賀茂の斎院に選ばれるので、契りがあったのか不明である。

頬ゆがめて/218

ここで光は女房たちの顔を直視しているわけではないので、「頬ゆがめて」は比喩であり、耳にした話からそう判断したことになる。通例は「言葉を違える」と解釈されるが、それでは次の「なほ見劣りはしなむかし」という判断に続いていかない。得意げに尾ひれをつけて話すこととの説もある。後とのつながりが出る。しかし、同じく「朝顔」の帖で、「見し折のつゆ忘られぬ朝顔の花の盛りは過ぎやしぬらむ」に対する朝顔の姫君からの返歌に「ほほゆがむ」が用いられているので、あとの帖ではあるがここでこの語の意味を考えてみたい。
「 何のをかしきふしもなきをいかなるにか置きがたく御覧ずめり青鈍の紙のなよびかなる墨つきはしもをかしく見ゆめり人の御ほど書きざまなどに繕はれつつその折は罪なきことも つきづきしくまねびなすにはほほゆがむこともあめればこそさかしらに書き紛らはしつつおぼつかなきことも多かりけり(何の美的感興もないが、どうしたわけか、光源氏は片付けるのがおしくてじっと御覧になっておられる様子。青鈍色の紙になよやかなる墨つきこそが美しく見えるみたい。人柄や書きぶりなどで繕われてしまい、書かれた当初は欠点がないことでも、ほかの者がこんなふうだったとその人に似つかわしいように真似て言葉を伝えると、つい思い違いもあることなので、分かったつもりで取り繕って書いてゆくうちには、よくわからないものになってしまうことが多いものです)」。その人らしい言葉つきを真似ようとしながら実際の言葉とはズレてゆくこを指す。それをこの場面に当てはめると、光源氏が送った歌や朝顔の姫の返しをさも、実際に聞いていたかのように、口まねや言葉を真似て読むが、実際のやりとりとは異なっているという意味になる。すなわち、単に言葉を違えるのではなく、その人になり切り一人称で語りながら言葉を間違うのである。後者は真に迫るだけに嘘かどうか第三者には判断しづらくなる。このようにして自己増殖してゆく偽の光源氏像に対する恐れが、「光る源氏名のみことことしう言ひ消たれたまふ咎多かなるにいとどかかる好きごとどもを末の世にも聞き伝へて軽びたる名をや流さむと忍びたまひける隠ろへごとをさへ語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ/02-001」帚木の冒頭部分で語られているのであろう。朝顔の姫君と「ほほゆがむ」の関係が二度まで語られているということは、この姫君と「語り/騙り」の二重性とは親和性があると見てよい。雨夜の品定めの冒頭で、頭中将が読みたがった手紙も朝顔からのものであったのかも知れない。姫君はその高貴さゆえに、葵の上さえ引けを感じるほどであり、葵の死後、光源氏の正妻候補として取り沙汰されるが、光源氏との恋愛に苦しむ六条御息所のような轍を踏まないで距離をおいたとされる。朝顔の姫君がもし光源氏と結婚していたらどうなったかは、女四の宮と光源氏の関係で想像することができる。朝顔は直接姿を見せずにあたかも透き影として立ち現れるのが面白い。親和性という点では藤壺に最も近いのかも知れない。後年、なびくことのない朝顔の姫君のことを諦めた光源氏は、過去の女性のことを紫の上に振り返りながら語る。その夜、夢に亡くなった藤壺があらわれ、罪が露見して苦しんでいるとの訴える。藤壺との関係はもちろん紫の上にも語ってはいながい、物語の背後で藤壺と朝顔は結びついているのである。

くつろぎがましく/219

度を越したくつろぎ方をいう。朝顔と光源氏の関係は、失意なものであり、当人をすぐ近くにしてすべき話柄ではない。

歌誦じがち/219

「がち」はしがち。「誦す」は声を出して歌う。歌を歌う傾向が強いことだが、これではさっぱりわからない。この女房は自分の歌をうたうのではなく、人の恋歌や秘め歌をうたうのであろう。歌は女主人ともっともプライベートなやりとりである。こういう女房がいたのでは、恋愛しづらい。

なほ見劣りはしなむかし/219

見劣りするのは女房とする説と、空蝉とする説がある。女房は光源氏の恋の相手ではないから、女主人である空蝉と考えるべきだろう。頭中将の女性論、取り巻きが女のあらを隠し、いいことばかり伝えるので、「まことかと見もてゆくに、見劣りせぬやうはなくなむあるべき/02-022」とあった。光源氏も空蝉の知識は得ている。しかし、女房がこうなら実際に接すると、頭中将の言う通りやはり見劣りするだろうとの意味。女房では「なほ」が意味をなさない。

守/220

紀伊守。

灯籠/220

室外に据える灯り。

掛け添へ/220

設置する数を増やす。

かかげ/220

灰になった燈芯を掻き落し、芯を引き上げて、炎を大きくすること。

御くだもの/220

お菓子・木の実・果物や軽い副食・酒の肴などを指す。先に「あるじも肴求むとこゆるぎのいそぎ」とあり、直後に「とばり帳」とあるから酒の肴とすべきである。ただし、その後、酒宴が果てることを考えると、締めの肴といったところだろう。酒があまり進むと不慮の事態が出来せぬとも限らないので、そろそろお開きする準備をしているのだ。光源氏はかなり酔った風に見えたのだろう。酔った点を理解しないと、「とばり帳」云々は、自分の高い身分を嵩にきた、ただの女好きになってしまう。

ばかり/220

わずかにの意味ではなく、酒をこれ以上出さずに軽食だけを出したということ。

参れり/220

「与える」の謙譲語。

とばり帳も/221

「我家(わいへん)は 帷帳(とばりちやう)も垂れたるを 大君来ませ 聟にせむ 御肴(みさかな)に何よけむ 鮑(あはび) 栄螺(さだをか) 石陰子(かせ)よけむ 鮑 栄螺 石陰子よけむ/催馬楽、我家)から。「聟にせむ」を呼び出すため。「聟にせむ」というからやって来たのに、酒の肴ばかり出すのはどうなってるんだ、早く女を出せ、と伝えている。もちろん、冗談口。

いかにぞは/221

どうなっているのか。催促の言葉。

さる方の/221

そっちの方面の、女の提供をいう。

心もとなく/221

物足りない。不足だ。

めざましき/221

不愉快。扱いが粗野で失礼だ。

何よけむとも/222

光源氏が「とばり張も」の語で「聟にせむ」を引き出し、女を提供せよとほのめかしたのに対して、紀伊守は「とばり張も」の語から、「御肴に何よけむ」を引き出し、鮑(あはび)や栄螺(さだをか)や石陰子(かせ)のような立派なものはお出しできない。あるのはくだもの程度のものばかりだと、応じた。大事なことは、直接的に女は出せないと答えたのではない点。食べ物のことと受け取ってはぐらかしたところが、乙なわけだ。実際には、光源氏の要望通りに北の廂に御座所を置くのを許すのである。次項参照。

え…ず/222

できない。

うけたまはら/222

お受けする。引き受ける。

さぶらふ/222

光源氏の用を足すために、しばらくそこで控える。

端つ方の御座/223

「 廂にぞ大殿籠もりぬる/02-242」とあるので、光源氏は母屋ではなく廂で床についた。「端つ方」は母屋ではないことを指す。貴人は普通、南面するので、南の廂で寝ると解釈されているが、空蝉の寝所に侵入した場所は北の障子であり、そのそばの北の廂で眠りについたのだ。「その人近からむなむうれしかるべき。女遠き旅寝は、 もの恐ろしき心地すべきを。ただその几帳のうしろに/02-201」の一文の意味がここで出てくる。この場所に紀伊守やその子供達が挨拶にくることを考えると、この御座所の位置は紀伊守の了承を得ていることになる。プライベート空間である北の廂に光源氏の寝所をしつらえることを許した紀伊守の狙いを考えてみるべきであろう。後述する。

仮なるやうにて/223

仮寝のようにして。仮こしらえの寝所にての意味ではない。その意味は「端つ方の御座に」で述べられている。要するに狸寝入りして人々が寝静まるのを待つ。

人びとも静まりぬ/223

酒宴を終え、寝静まる準備を始める。しかし、紀伊守はまだ側で控えているし、紀伊守の子供たちも、光源氏の目に留まることに期待をかけながら護衛としてであろう、側に控えている。

子ども/224

複数形。小君ほかそこにいる子供達を指す。

をかしげ/224

興味をひく対象である。ここは小君への前振り。

童なる/224

殿上童(童殿上とも)の身分。貴族の子弟で、元服前に作法見習いとして清涼殿の殿上の間に出入りが許された子供。

御覧じ馴れたる/224

殿上の間で光源氏が見慣れた。

あてはか/225

高貴な感じがする。桃園式部卿宮の末っ子である小君のこと。空蝉はその姉。

いづれかいづれ/226

どの子が主人である紀伊守の子供で、どの子が式部卿の宮の子供かとの質問。

故衛門督/227

衛門府の長官で、名門の貴族の子弟が着任する。従四位下相当。空蝉と小君の父。

かなしくしはべる/227

亡き衛門督が小君をかわいがる。

後れはべりて/227

父と死別して取り残された。

姉なる人/227

空蝉。今はこの家の主人である紀伊守の父、伊予介の後妻となっている。

よすが/227

えにし、頼る相手。

かくてはべるなり/227

ここにこうして住むことになっているのです。

才などもつきはべりぬべく/228

漢学も身につき、ものになりそうで。

けしうははべらぬ/228

まんざらでもない。主語がないので、「才なども」を当てる説、人柄などを当てる説がある。殿上を考慮するなら、漢学のみでは不足。血筋、家柄であろう。

殿上なども思ひたまへかけながら/228

話者である紀伊守が小君を殿上童にしようと願いをかけること。

思ひたまへかけ/228

は「かける」対象である殿上の間、引いては帝に対する敬意。

すがすがしう/228

すらすらと事が運ぶさま。

まじらひ/228

宮仕えすること。

める/228

紀伊守の目には、はかが進まないように見える。客観的に事態を述べることで、自分としてはどうにもできない非力を訴え、光源氏の同情を引く表現となっている。

あはれのことや/229

空蝉、小君に対する光源氏の同情表現。

まうと/229

二人称、そなた。紀伊守を指す。

さなむはべる/229

そうです。この「なむ」の強調に、どこか心理的にストレートでない感じがする。

似げなき親/230

この場合、自分と年齢が変わらない、年の合わない親であると同時に、身分違いの親。

をも/230

紀伊守にとって父親は身分も年齢も相応だが、母親は「似げなき」。

主上/230

帝。

聞こし召し/230

聞くの尊敬語。

出だし立てむ/230

故衛門督が娘である空蝉を後宮に立てようとしたこと。

漏らし奏せし/230

正式な手続きに入る前に、漠然と宮仕えの意向があることを帝の耳に入れ、お伺いを立てた。

いかになりにけむ/230

故衛門督の娘の宮仕えの件は、どうなったのか。

世こそ定めなきものなれ/230

空蝉自身が帝の正妻になりたいと思い上がっていたのだから、衛門督が生きていれば、空蝉は宮仕えをしていたろう。父の死により貴族でもない伊予介の妻に納まったことに対する感慨である。光源氏の場合も、祖母は反対の立場であったが、祖父の意思を継いで娘桐壺を宮仕えに出した経緯が思い起こされる。母が宮仕えに出なかったら、光自身この世に存在しない。この世の定めなさを深く感じ取っていたろう。光源氏に備わった生来の無常感を読み落とすと、幼い頃から世の無常を感じてきたという晩年の感慨が理解できないばかりか、光源氏の一生は単なる好色家に堕してしまう。刹那的な快楽にふけることと、出家を真摯に考えることは矛盾しない。それらは無常観から生じる表裏一体の行動である。しかし、一方で果たして衛門督が生きていれば娘を本当に後宮に入れたかどうかは慎重に検討する必要があろう。後に見るように藤壺の母は桐壺更衣の変死を例に出し、娘の宮仕えを拒否した事実がある。最愛の女性を失い悲嘆に暮れている帝を慰めようとに何人かの女性が後宮に入ったことが後に語られるが、まったくこれらの女性は顧みられることがなかったのであり、空蝉もまたそうなる危険性が高かったであろう。桐壺が宮仕えに出たことで得た幸(光源氏の誕生)と不幸(頓死)と、空蝉が宮仕えに出なかったことから得た幸(光源氏との出会い)不幸(伊予介の後妻)が、光源氏を通して闡明になるところに桐壺の帖に続くこの帖の肝所がある。いわば桐壺更衣の陰の部分を引き継いだのが空蝉であり、陽の部分を引き継いだのが藤壺である。互いに補完し合う関係にあるのだ。藤壺は帝の妃であり、光源氏は無理に肉体関係を結ぶが、それを直接描くことはできない。空蝉を藤壺の補完として設定することで、その情事を描いていると見ることもできる。物語の冒頭、時代設定を実時間から切り離すことで帝を批判する視点を手に入れたことと、補完者を設定することで直接描けないことを間接に描写する等価処理を編み出したことは、源氏物語が勝ち得た二大創造であり、これまでにない二つの次元が加わることで、作り物(フィクション)の世界が完成されたのである。

いとおよすけのたまふ/230

大人ぶった話しぶりをする、ではない。世の中を諦観したような老成を意味する。

不意に/231

何の前触れもなく。とつぜん。

かくてものしはべる/231

このように。父である衛門督が亡くなり、帝の後宮にあがる予定から、伊予介の後妻に転じたこと。

世の中/231

人の世。世間。特に男女の関係。

さのみこそ/231

そのようである。おっしゃる通りである。

定まり/231

特に男女の婚姻相手。

中についても/231

就中(なかんずく)という漢語から。中でも、とりわけ。

宿世/231

前世にもとづくこの世の因縁。

浮かびたる/231

水に浮かんだ状態のように不安定である。

あはれ/231

気持ちが強く揺さぶられる思い。この場合は同情心や哀れみ。

聞こえさす/231

言うの謙譲語。

伊予介/232

紀伊守の父。

かしづくや/232

本来自分より身分の高い娘である空蝉に対して大切に世話をする。

君と思ふらむな/232

主君と思っているだろうな。「な」は終助詞で、念押し。

いかがは/233

「いかがはかしづかむや」の略。どうしてかしづいておりましょうか。本当の意味でかしづいたりなどしておりませんという批判。

私の主/233

世間的には夫である伊予介が主人だが、私生活では妻を主人扱いしている。おそらく、箱入り状態にして紀伊守たちとの交流を許さないのであろう。

好き好きしき/233

私的な主人扱いが老いらくの恋といった感じで、はた目にいやらしく映るという感想。

なにがしよりはじめて/233

私をはじめとして一同全員。

うけひき/233

すすんで賛成する。

まうとたちのつきづきしく今めきたらむに/234

老いらくの恋に対して、年齢も近く、今風のそなたたち。

おろしたてむ/234

身分の下の方向に下ろして、そこで人交わりをさせる。身分の低い者の仲間入りをさせる。

よしあり/234

一般的には貴族的な教養・知性。そうしたことにもとづく考え。考えがあって。

気色ばめる/234

本心が表面に表れていること。

いづかたにぞ/235

空蝉の一行はどこにいるのか。

下屋/235

寝殿造りの背後に立てた雑舎。身分の低い者が住んだり、浴室などがあった。

あへざらむ/235

すっかり仕切らない。何人かあぶれていることを言う。空蝉は父が大切にしている愛妻だから、もちろん下屋に置くはずがなく、当然母屋の西側にいることは知れたことだが、ここでの紀伊守の発言は、裏を返せば、母屋の西側は人少なであることを知らせているとも考え得る。

皆人びと/236

光源氏の一行はみな。敬語が使用されていないことから、光源氏のみは簀子以外で寝をとったと考えられているが、そうではない。人々は酔って早々と簀子で寝静まったが、光源氏だけは簀子で寝をとりながらも寝付けず闇の中に取り残されるのである。次文以降でそこにスポットが当たる。目の前に北の障子を配置させ、空蝉を対峙させることで一気に緊張感が高まるのだ。

簀子/236

寝殿で廂のまわりをぐるりと囲む濡れ縁。

おさらい

からうして今日は日のけしきも直れり かくのみ籠もりさぶらひたまふも 大殿の御心いとほしければ まかでたまへり おほかたの気色 人のけはひも けざやかにけ高く 乱れたるところまじらず なほ これこそは かの 人びとの捨てがたく取り出でしまめ人には頼まれぬべけれ と思すものから あまりうるはしき御ありさまの とけがたく恥づかしげに思ひしづまりたまへるをさうざうしくて 中納言の君 中務などやうの おしなべたらぬ若人どもに 戯れ言などのたまひつつ 暑さに乱れたまへる御ありさまを 見るかひありと思ひきこえたり 大臣も渡りたまひて うちとけたまへれば 御几帳隔てておはしまして 御物語聞こえたまふを 暑きに とにがみたまへば 人びと笑ふ あなかま とて 脇息に寄りおはす いとやすらかなる御振る舞ひなりや 暗くなるほどに 今宵 中神 内裏よりは塞がりてはべりけり と聞こゆ さかし 例は忌みたまふ方なりけり 二条の院にも同じ筋にて いづくにか違へむ いと悩ましきに とて大殿籠もれり いと悪しきことなり と これかれ聞こゆ 紀伊守にて親しく仕うまつる人の 中川のわたりなる家なむ このころ水せき入れて 涼しき蔭にはべる と聞こゆ いとよかなり 悩ましきに 牛ながら引き入れつべからむ所を とのたまふ 忍び忍びの御方違へ所は あまたありぬべけれど 久しくほど経て渡りたまへるに 方塞げて ひき違へ他ざまへと思さむは いとほしきなるべし 紀伊守に仰せ言賜へば 承りながら 退きて 伊予守の朝臣の家に慎むことはべりて 女房なむまかり移れるころにて 狭き所にはべれば なめげなることやはべらむ と 下に嘆くを 聞きたまひて その人近からむなむ うれしかるべき 女遠き旅寝は もの恐ろしき心地すべきを ただその几帳のうしろに とのたまへば げに よろしき御座所にも とて 人走らせやる いと忍びて ことさらにことことしからぬ所をと 急ぎ出でたまへば 大臣にも聞こえたまはず 御供にも睦ましき限りしておはしましぬ にはかに とわぶれど 人も聞き入れず 寝殿の東面払ひあけさせて かりそめの御しつらひしたり 水の心ばへなど さる方にをかしくしなしたり 田舎家だつ柴垣して 前栽など心とめて植ゑたり 風涼しくて そこはかとなき虫の声々聞こえ 蛍しげく飛びまがひて をかしきほどなり 人びと 渡殿より出でたる泉にのぞきゐて 酒呑む 主人も肴求むと こゆるぎのいそぎありくほど 君はのどやかに眺めたまひて かの 中の品に取り出でて言ひし この並ならむかしと思し出づ 思ひ上がれる気色に聞きおきたまへる女なれば ゆかしくて耳とどめたまへるに この西面にぞ人のけはひする 衣の音なひはらはらとして 若き声どもにくからず さすがに忍びて 笑ひなどするけはひ ことさらびたり 格子を上げたりけれど 守 心なし とむつかりて下しつれば 火灯したる透影 障子の上より漏りたるに やをら寄りたまひて 見ゆや と思せど 隙もなければ しばし聞きたまふに この近き母屋に集ひゐたるなるべし うちささめき言ふことどもを聞きたまへば わが御上なるべし いといたうまめだちて まだきに やむごとなきよすが定まりたまへるこそ さうざうしかめれ されどさるべき隈には よくこそ 隠れ歩きたまふなれ など言ふにも 思すことのみ心にかかりたまへば まづ胸つぶれて かやうのついでにも 人の言ひ漏らさむを 聞きつけたらむ時 などおぼえたまふ ことなることなければ 聞きさしたまひつ 式部卿宮の姫君に朝顔奉りたまひし歌などを すこしほほゆがめて語るも聞こゆ くつろぎがましく 歌誦じがちにもあるかな なほ見劣りはしなむかし と思す 守出で来て 灯籠掛け添へ 灯明くかかげなどして 御くだものばかり参れり とばり帳も いかにぞは さる方の心もとなくては めざましき饗応ならむ とのたまへば 何よけむとも えうけたまはらず と かしこまりてさぶらふ 主人の子ども をかしげにてあり 童なる 殿上のほどに御覧じ馴れたるもあり 伊予介の子もあり これは 故衛門督の末の子にて いとかなしくしはべりけるを 幼きほどに後れはべりて 姉なる人のよすがに かくてはべるなり 才などもつきはべりぬべく けしうははべらぬを 殿上なども思ひたまへかけながら すがすがしうはえ交じらひはべらざめる と申す あはれのことや この姉君や まうとの後の親 さなむはべる と申すに 似げなき親をも まうけたりけるかな 主上にも聞こし召しおきて 宮仕へに出だし立てむと漏らし奏せし いかになりにけむと いつぞやのたまはせし 世こそ定めなきものなれ と いとおよすけのたまふ 不意に かくてものしはべるなり 世の中といふもの さのみこそ 今も昔も 定まりたることはべらね 中についても 女の宿世は浮かびたるなむ あはれにはべる など聞こえさす 伊予介は かしづくや 君と思ふらむな いかがは 私の主とこそは思ひてはべるめるを 好き好きしきことと なにがしよりはじめて うけひきはべらずなむ と申す さりとも まうとたちのつきづきしく今めきたらむに おろしたてむやは かの介は いとよしありて気色ばめるをや など 物語したまひて 酔ひすすみて 皆人びと簀子に臥しつつ 静まりぬ

2020-02-24

Posted by genjisite