帚木 九章 常夏の女
解読編
帚木 原文 現代語訳 第9章
中将 なにがしは痴者の物語をせむとて いと忍びて見そめたりし人のさても見つべかりしけはひなりしかば ながらふべきものとしも思ひたまへざりしかど 馴れゆくままにあはれとおぼえしかば 絶え絶え忘れぬものに思ひたまへしを さばかりになれば うち頼めるけしきも見えき 頼むにつけては恨めしと思ふこともあらむと心ながらおぼゆるをりをりもはべりしを 見知らぬやうにて 久しきとだえをもかうたまさかなる人とも思ひたらず ただ朝夕にもてつけたらむありさまに見えて心苦しかりしかば 頼めわたることなどもありきかし 親もなくいと心細げにて さらばこの人こそはと事にふれて思へるさまもらうたげなりき かうのどけきにおだしくて久しくまからざりしころ この見たまふるわたりより 情けなくうたてあることをなむさるたよりありてかすめ言はせたりける 後にこそ聞きはべりしか さる憂きことやあらむとも知らず 心には忘れずながら消息などもせで久しくはべりしに むげに思ひしをれて心細かりければ 幼き者などもありしに思ひわづらひて 撫子の花を折りておこせたりし とて涙ぐみたり さて その文の言葉は と問ひたまへば いさや ことなることもなかりきや
山がつの垣ほ荒るとも折々にあはれはかけよ撫子の露 思ひ出でしままにまかりたりしかば 例のうらもなきものから いと物思ひ顔にて 荒れたる家の露しげきを眺めて 虫の音に競へるけしき 昔物語めきておぼえはべりし
咲きまじる色はいづれと分かねどもなほ常夏にしくものぞなき
大和撫子をばさしおきて まづ 塵をだになど親の心をとる
うち払ふ袖も露けき常夏にあらし吹きそふ秋も来にけり
とはかなげに言ひなして まめまめしく恨みたるさまも見えず 涙をもらし落としてもいと恥づかしくつつましげに紛らはし隠して つらきをも思ひ知りけりと見えむはわりなく苦しきものと思ひたりしかば 心やすくてまたとだえ置きはべりしほどに 跡もなくこそかき消ちて失せにしか まだ世にあらば はかなき世にぞさすらふらむ あはれと思ひしほどに わづらはしげに思ひまとはすけしき見えましかば かくもあくがらさざらまし こよなきとだえおかず さるものにしなして長く見るやうもはべりなまし かの撫子のらうたくはべりしかば いかで尋ねむと思ひたまふるを 今もえこそ聞きつけはべらね これこそのたまへるはかなき例なめれ つれなくてつらしと思ひけるも知らで あはれ絶えざりしも益なき片思ひなりけり 今やうやう忘れゆく際に かれはたえしも思ひ離れず 折々人やりならぬ胸焦がるる夕べもあらむとおぼえはべり これなむえ保つまじく頼もしげなき方なりける されば かのさがな者も思ひ出である方に忘れがたけれど さしあたりて見むにはわづらはしく よくせずは飽きたきこともありなむや 琴の音すすめけむかどかどしさも好きたる罪重かるべし この心もとなきも疑ひ添ふべければ いづれとつひに思ひ定めずなりぬるこそ 世の中や ただかくこそ とりどりに比べ苦しかるべき このさまざまのよき限りをとり具し 難ずべきくさはひまぜぬ人はいづこにかはあらむ 吉祥天女を思ひかけむとすれば 法気づきくすしからむこそ またわびしかりぬべけれとて 皆笑ひぬ
難易度☆☆☆
山がつの垣は手つかず荒れるとも、折りあるごとに愛情をそそいでくださいな、あなたが撫でてかわいがってくださらないから、撫子は露にまみれて泣きじゃくっていますよ。思い出すまますぐに出かけて行きましたところ、これまで通りわたしに対してはわだかまりのない様子でしたが、それでもひどく憂いに沈んだまま荒れた家の露にそぼ濡れた庭を眺め、虫の音と競うように泣いている姿は昔の物語めいた感じに思えました。
咲き混じれば大和撫子も唐撫子も美しさこそいずれを甲乙つきかねますが、やはりわたしには常夏の花が一番です、子は頭を撫でただけですが、あなたは床で撫であった仲なのですから。
大和撫子のことは二の次にして、これからは何はさておき寝床に塵さえつかぬよう頻繁に通うことにしょうなどと親の本心を汲み取る。
床の塵を払い人待ちしてさえ訪れなく袖も涙で濡れています、伴寝する喜びを知った常夏の花なのに、本妻からは脅され激しい嵐まで吹き加わって、いよいよ秋が到来し、あなたが飽きて去って行く季節ですね。
とはかなげな調子で言いなし、本気で恨んでいる様子も見受けられず、つい涙をこぼしてもたいそう気まり悪げにつつましく包み隠してしまうし、辛い思いをしているように見られてはやり切れないほど苦しいと考えているようなので、気を許してまたぞろ足が遠のいてしまいましたそのうちに、跡形なく姿をくらませてしまったのです。まだこの世にあれば、あてどない身の上でさすらっていることでしょう。いとしさを感じていたあの時分に、うるさいほどすがりつく様子が見て取れていましたら、こんな行方もしれない状態にさせはしなかったでしょうに、ああまでひどい途絶をせずに、妻として立派な待遇を与えて末長く世話をする方途もあったでしょうに。あの撫子が可愛いかったので、どうかして尋ねあてようと思っているのですが、今もっていどころを聞きつけられないのです。これこそあなたのおっしゃった心の底があてにできない女の例でしょう。感情を外に出さない質で内々恨めしいと思っていてもそれさえ気がづかず、愛情が冷めずにいたのも益体もない一方的な思い入れだったのです。今わたくしの方はようやく忘れつつあるというのに、むこうでは今がいまどうにも思い切ることができず、折々誰も責められず胸を焦がす夕べもあろうと思えるのです。こういう女こそが付き合いを続けづらくてにしにくい部類なのです。(左馬頭)そうであれば、あの口やかましい女も心に思いが残っている点で忘れがたいけれども、正妻として顔をつきあわして暮らすとなると気詰まりで、悪くすると嫌気がさすこにもなったでしょう。琴が達者だった女の才気も、男好きの罪は重いと断じねばなるまい。(頭中将)このつかみどころのない女にしても男がいる疑いがつきまとうのだから、どんな女が妻によいかはついに決定できず仕舞だな。(左馬頭)男女の仲というものは、まさしくそのように決定できないもの。それぞれがまちまちで一概に比較するのは難しいものでしょう。(頭中将)このさまざまな良い面だけをとり合わせ、非難すべき点の交じらない人がどこかにいるでしょうか。
★
フレーズ対訳
帚木 フレーズ対訳 第9章
- 《中将 なにがしは痴者の物語をせむ とて》135
頭中将は、「わたくしは愚か者の話をしましょう」と前置きして、 - 《いと忍びて見そめたりし人のさても見つべかりしけはひなりしかば》136
「たいそう人目を忍んでいい仲になった女が、秘密裏のままのつき合ってゆけそうな感じでしたので、 - 《ながらふべきものとしも思ひたまへざりしかど 馴れゆくままにあはれとおぼえしかば》136
長続きしそうな関係とも思っておりませんでしたが、馴れゆくうちにはいとしく思えてきて、 - 《絶え絶え忘れぬものに思ひたまへしを》136
途絶えがちながら忘れられない存在になっていたのですが。 - 《さばかりになれば うち頼めるけしきも見えき》137
それほどの仲になってみますと、少しは夫としての信用を勝ち得たようにも見えました。 - 《頼むにつけては 恨めしと思ふこともあらむと 心ながらおぼゆるをりをりもはべりしを 見知らぬやうにて》137
頼むとなれば恨めしいと思うこともあろうと一人推量される折々もあったのですが、気にも留めておらぬふうで、 - 《久しきとだえをも かうたまさかなる人とも思ひたらず》137
久しく通いが途絶えてもこんなにも足が遠いかとなじる様子もなく、 - 《ただ朝夕にもてつけたらむありさまに見えて心苦しかりしかば 頼めわたることなどもありきかし》137
ただ朝夕の仕度に専念しようとしている様子が見て取れいじらしく思われたので、いつまでも頼りにするよう幾度となく言って聞かせたりなどもしました。 - 《親もなくいと心細げにて さらばこの人こそはと 事にふれて思へるさまもらうたげなりき》138
親もなくとても心細い様子で、それだけにこの人だけが頼みだとことあるごとに思っているようなのも可愛らしい感じでした。 - 《かうのどけきにおだしくて 久しくまからざりしころ》139
こんなふうにおっとりしているのをいいことにして久しく訪れもせずにいたところ、 - 《この見たまふるわたりより 情けなくうたてあることをなむ さるたよりありてかすめ言はせたりける》139
私の妻あたりから、情を欠いた手ひどいことを適当な仲立ちを通してほのめかせたとの由、 - 《後にこそ聞きはべりしか》139
あとではじめて聞き知った次第です。 - 《さる憂きことやあらむとも知らず 心には忘れずながら 消息などもせで久しくはべりしに》140
そんなつらいことがあろうとも知らず、心では忘れずながら便りなんかもせず久しく沙汰なしにしておりましたところ、 - 《むげに思ひしをれて心細かりければ 幼き者などもありしに思ひわづらひて》140
すっかり悩みしおれ心細い境遇であったので、幼い娘がいることなどもわずらいの種であり、 - 《撫子の花を折りておこせたりし とて涙ぐみたり》140
そこで撫子の花を折って結び文を寄越してまいりました」と言いいながら頭中将は涙ぐんでいる。 - 《さて その文の言葉は と問ひたまへば いさや ことなることもなかりきや》141
「それで、その手紙の中身は」と光の君がお問いになったところ、「いえ、これと言って変わった内容でもありませんでしたよ。 - 《山がつの垣ほ荒るとも折々にあはれはかけよ撫子の露》142 ★☆☆
山がつの垣は手つかず荒れるとも、折りあるごとに愛情をそそいでくださいな、あなたが撫でてかわいがってくださらないから、撫子は露にまみれて泣きじゃくっていますよ - 《思ひ出でしままにまかりたりしかば》143
思い出すまますぐに出かけて行きましたところ、 - 《例のうらもなきものから いと物思ひ顔にて 荒れたる家の露しげきを眺めて》143
これまで通りわたしに対してはわだかまりのない様子でしたが、それでもひどく憂いに沈んだまま荒れた家の露にそぼ濡れた庭を眺め、 - 《虫の音に競へるけしき 昔物語めきておぼえはべりし》143
虫の音と競うように泣いている姿は昔の物語めいた感じに思えました。 - 《咲きまじる色はいづれと分かねどもなほ常夏にしくものぞなき》144 ★☆☆
咲き混じれば大和撫子も唐撫子も美しさこそいずれを甲乙つきかねますが、やはりわたしには常夏の花が一番です、子は頭を撫でただけですが、あなたは床で撫であった仲なのですから。 - 《大和撫子をばさしおきて まづ塵をだになど 親の心をとる》145
大和撫子のことは二の次にして、これからは何はさておき寝床に塵さえつかぬよう頻繁に通うことにしょうなどと親の本心を汲み取る。 - 《うち払ふ袖も露けき常夏にあらし吹きそふ秋も来にけり》146
床の塵を払い人待ちしてさえ訪れなく袖も涙で濡れています、伴寝する喜びを知った常夏の花なのに、本妻からは脅され激しい嵐まで吹き加わって、いよいよ秋が到来し、あなたが飽きて去って行く季節ですね。 - 《とはかなげに言ひなして まめまめしく恨みたるさまも見えず》146
とはかなげな調子で言いなし、本気で恨んでいる様子も見受けられず、 - 《涙をもらし落としても いと恥づかしくつつましげに紛らはし隠して つらきをも思ひ知りけりと見えむは わりなく苦しきものと思ひたりしかば》146
つい涙をこぼしてもたいそう気まり悪げにつつましく包み隠してしまうし、辛い思いをしているように見られてはやり切れないほど苦しいと考えているようなので、 - 《心やすくて またとだえ置きはべりしほどに 跡もなくこそかき消ちて失せにしか》146
気を許してまたぞろ足が遠のいてしまいましたそのうちに、跡形なく姿をくらませてしまったのです。 - 《まだ世にあらば はかなき世にぞさすらふらむ》147
まだこの世にあれば、あてどない身の上でさすらっていることでしょう。 - 《あはれと思ひしほどに わづらはしげに思ひまとはすけしき見えましかば》148
いとしさを感じていたあの時分に、うるさいほどすがりつく様子が見て取れていましたら、 - 《かくもあくがらさざらまし》148
こんな行方もしれない状態にさせはしなかったでしょうに、 - 《こよなきとだえおかず さるものにしなして長く見るやうもはべりなまし》148
ああまでひどい途絶をせずに、妻として立派な待遇を与えて末長く世話をする方途もあったでしょうに。 - 《かの撫子のらうたくはべりしかば いかで尋ねむと思ひたまふるを 今もえこそ聞きつけはべらね》149
あの撫子が可愛いかったので、どうかして尋ねあてようと思っているのですが、今もっていどころを聞きつけられないのです。 - 《これこそのたまへるはかなき例なめれ》150
これこそあなたのおっしゃった心の底があてにできない女の例でしょう。 - 《つれなくてつらしと思ひけるも知らで あはれ絶えざりしも 益なき片思ひなりけり》150
感情を外に出さない質で内々恨めしいと思っていてもそれさえ気がづかず、愛情が冷めずにいたのも益体もない一方的な思い入れだったのです。 - 《今やうやう忘れゆく際に かれはたえしも思ひ離れず 折々人やりならぬ胸焦がるる夕べもあらむとおぼえはべり》151
今わたくしの方はようやく忘れつつあるというのに、むこうでは今がいまどうにも思い切ることができず、折々誰も責められず胸を焦がす夕べもあろうと思えるのです。 - 《これなむ え保つまじく頼もしげなき方なりける》152
こういう女こそが付き合いを続けづらくてにしにくい部類なのです。」 - 《されば かのさがな者も 思ひ出である方に忘れがたけれど さしあたりて見むにはわづらはしくよ よくせずは 飽きたきこともありなむや》153
(左馬頭)「そうであれば、あの口やかましい女も心に思いが残っている点で忘れがたいけれども、正妻として顔をつきあわして暮らすとなると気詰まりで、悪くすると嫌気がさすこにもなったでしょう。 - 《琴の音すすめけむかどかどしさも 好きたる罪重かるべし》153
琴が達者だった女の才気も、男好きの罪は重いと断じねばなるまい。」 - 《この心もとなきも 疑ひ添ふべければ いづれとつひに思ひ定めずなりぬるこそ》154
(頭中将)「このつかみどころのない女にしても男がいる疑いがつきまとうのだから、どんな女が妻によいかはついに決定できず仕舞だな」 - 《世の中や ただかくこそ とりどりに比べ苦しかるべき》155
(左馬頭)「男女の仲というものは、まさしくそのように決定できないもの。それぞれがまちまちで一概に比較するのは難しいものでしょう。」 - 《このさまざまのよき限りをとり具し 難ずべきくさはひまぜぬ人は いづこにかはあらむ》156
(頭中将)「このさまざまな良い面だけをとり合わせ、非難すべき点の交じらない人がどこかにいるでしょうか。 - 《吉祥天女を思ひかけむとすれば 法気づきくすしからむこそ また わびしかりぬべけれ とて 皆笑ひぬ》157 ★☆☆
吉祥天女に思いをかけようとしたとしても、抹香臭く人間離れしている点で、やはり気萎えしてしまうことでしょう」と言って光の君以外はみな笑った。
★ ★
解析編
- A<B:AはBに係る Bの情報量はAとBの合算〈情報伝達の不可逆性〉 ※係り受けは主述関係を含む
- 〈直列型〉<:直進 #:倒置 〈分岐型〉( ):迂回 +:並列 〈中断型〉φ:独立文 [ ]:挿入 |:中止法
- 〈反復型〉~AX:Aの置換X A[,B]:Aの同格B 〈分配型〉A<B|*A<C ※直列型以外は複数登録、直列型は単独使用
- 〈主〉述:一朱・二緑・三青・四橙・五紫・六水 [ ]:補 /:挿入 @・@・@・@:分岐
- 136「見そめたりし人のさても見つべかりし/AのB連体形:「の」は主格)→「けはひ」
- 137「さばかりになれば、うち頼めるけしきも見えき」「頼むにつけては、恨めしと思ふこともあらむ/対表現)→「と」→「おぼゆる」
- 137「恨めしと思ふこともあらむと…をりをりもはべりしを」→「見知らぬやうに」
- 138「この人こそはと」→「思へる」
- 146「恨みたるさまも見えず」→「涙を…落としても…隠して」→「つらきをも…思ひたりしか/さまも、落としても、つらきをも:「も」の相関関係)
- 148「あはれと思ひしほどに」→「わづらはしげに…けしき見えましかば」
- 148「見えましかば」→「かくもあくがらさざらまし」「見るやうもはべりなまし/並列)(Aも、Bも)
- 153「されば」→「かのさがな者も…ありなむや」「琴の音…かどかどしさも…重かるべし/並列)(Aも、Bも)
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語彙編
なにがし/135
自称。
痴者の物語/135
痴者は判断力の乏しい者。この痴者は女であるとの説と、中将であるとの説がある。「つらきをも思ひ知りけりと見えむはわりなく苦しきものと思ひたりしかば心やすくてまたとだえ置きはべりしほどに跡もなくこそかき消ちて失せにしか/02-146」とあり、女が努めてつらい様子を夫に見せないようにしていたのに、それを理解せず、安心してしばらく通うのをやめたことが、女が失踪した直接原因であった。その点から考え、痴者は頭中将自身であろう。吉祥天女に思いをかけようとしたとしても、抹香臭く人間離れしている点で、やはり気萎えしてしまうことでしょうね、言って光の君以外はみな笑った。
さても見つべかりし/136
そのような状態、すなわちいと忍んだ状態のまま。
ながらふ/136
長続き。
絶え絶え/136
途切れ途切れに。始終忘れられないのではなく、忘れられない状態が時折あったということ。
忘れぬもの/136
「もの」は、軽蔑の対象でなく、確たる存在、不動の存在のニュアンスを帯びる。
思ひたまへしを/136
後ろにかかる語句がないので文を切る。「を」は詠嘆を表す間助詞。
さばかりになれば/137
忘れられぬ存在になれば。
うち頼める/137
「うち」はすっかりの意味と、とっさにすこしばかりの意味がある。後に「頼めわたる」とあるので、すっかりではない。「頼む」はマ行四段活用の自動詞用法(こちらが相手を頼りとする)、マ行下二段活用の他動詞用法(相手がこちらを頼りとするようにさせる、使役用法)がある。ここは他動詞で、常夏が頭中将を頼りにするようにしむけることに少しは成功したとの意味。
見え/137
女が…と見える。受け身用法。
頼む/137
自動詞用法。女が頭中将を頼りにする。
恨めし/137
頭中将の浮気したり、通いが途絶えることから生じる嫉妬。
心ながら/137
我ながら。自分のことながら。
たまさかなる人/137
めったに現れない人の意味だが、そこには夫として信頼できない、愛情の薄いなどの気持ちがこもる。
もてつく/137
無理に繕う。
心苦し/137
相手に申し訳ないという気持ち。
頼めわたる/137
(動詞の連用形+「わたる」)は、繰り返し…する、長期にわたって…する。「頼め」は他動詞。自分を頼るように何度もすすめる。生涯面倒を見ることをほのめかす。
心細げ/138
頼る親族がなく、将来不安を抱えている状態。
さらば/138
「親もなくいと心細げ」ならば。
この人こそは/138
頭中将こそは頼みの夫である。
思へるさまも/138
ここの「も」は、「うち頼めるけしきも見えき/136」の「も」を受ける。
らうたげなり/138
かわいらしい。
かうのどけき/139
「かう」は、「久しきとだえをもかうたまさかなる人とも思ひたらず/136」とあった。
おだしく/139
安心。
この見たまふるあたり/139
妻である右大臣の四の君。
うたて/139
ひどい。
さるたより/139
無視しえない立派な仲立ちを通して。
かすめ/139
はっきりとは言わないで、ほのめかす。
憂きこと/140
つらいこと。
むげに/140
ひどく。むやみに。
心細かり/140
身近に相談できる人がいない状況。
撫子の花/140
「撫でし子」、すなわち、頭中将が撫でてかわいがった子供のことを暗示する。
涙ぐみたり/140
「たり」は、先ほど来、涙ぐんだ状態が続いていることを表す。
さてその文の言葉は/141
「撫子の花を折りておこせたりし/02-140」を受け、それでその手紙の言葉は。
いさや/141
(否や、不知や)否定の言葉。言葉をにごす感じ。さあ、どうだか。左馬頭の紹介した指を喰う女や木枯の女に比べ、歌の詠みぶりが生で、洗練さを欠いており、紹介するのがためらわれるものであった。
ことなるなかりきや/141
特別、異例。「や」は、詠嘆。特別なことはありませんでした。「さばかりになればうち頼めるけしきも見えき/02-137」頭中将の中では、特別な関係であるのに、女からはその様子が見えない。その心的ギャップが「や」に籠められている。
山がつの垣ほ荒るとも/142
「やまがつ」は女が自分を卑下して言った言葉とされるが、女が自分に見立てたのは「やまがつ」ではなく「垣ほ」である。娘である撫子が咲き出すの場所であるから、比喩として意味をなす。都会的洗練に欠けたやまが育ちのわたしである垣ほが「荒る」とは、手つかずのまま放置され経年変化した状態であるが、これは男に見放された状態を意味する。そう考えると、「垣ほ」は女性器を暗示し、この女の娼婦性を示す言葉である。「とも」は仮定。私のことはほったらかしでも。
折々に/142
時折ではない。一年には様々な年中行事があり、また、男の子であれ女の子であれ成長過程にはいろいろの行事がある。それらを具体的に思い浮かべた表現。
あはれはかけよ撫子の露/142
「あはれ」は愛情。「撫子」は「撫でし子」、すなわち、花の名前と、頭中将が撫でてかわいがった子供のことをかける。「露」は「かける」対照である愛情の露と解釈される向きもあるが、歌で「露」とあれば泣き濡れること。あなたが撫でてかわいがってくれないから、撫子が泣き濡れ露にまみれていますという意味。「撫子の露にまみえし」などの省略で、そう考えると歌というより今様に近似し、やはり遊び女、傀儡師など回遊性の娼婦めく。なお露の多さは、「荒れたる家の露しげき/02-143」と具体的に描写される。
例のうらもなき/143
頭中将の妻からの嫌がらせを受けたり、男が久しく通ってこなくても、恨みに思うことなく、心に裏がなく、こだわりやわだかまりのない状態。「恨めしと思ふこともあらむと心ながらおぼゆるをりをりもはべりしを見知らぬやうにて久しきとだえをもかうたまさかなる人とも思ひたらず/137」
ものから/143
そういう状態でありながら。「もの」は形式名詞だが、「もの」の動かなさを持ちつつも。
虫の音に競へる/143
女が泣き声を虫の鳴き音と競っている。
昔物語めきて/143
頭中将が本気で愛情をもっていれば、こうした距離をおいた感想は取れないであろう。心理的距離は頭中将の方にもあるのだ。
咲きまじる/144
子である大和撫子と、親である常夏(唐撫子)が入り乱れて咲く。
色はいづれと分かねども/144
女が今の状況を、泣き濡れる、はかないなど「露」のイメージに象徴化したのを受けて、露によって花の色が美しさを増すという「露」のもつプラスイメージから「色」に置き換え、自分をひきつける魅力は親子どちらとも区別がつかないけれど。
なほ常夏に/144
「常夏」は唐撫子、石竹。「とこ」は「常」と「床」、「なつ」は「夏」と「撫づ」をかける。女が「垣ほ」で暗示した女性器を、「床」で置き換える。頭を撫でた子も可愛いが、やはり乳繰り合ったおまえが愛しいというセクシャルな返歌。
しくものぞなき/144
これ以上のものはないという漢文表現。「しく」は漢文表現「如く」と「敷く」をかける。「床」と「敷く」は縁語。女が、自分はともかく子供に愛情を注いでやってほしいと詠んできた歌を受け、そうは言ってもやはり親であるあなたが一番なのだ、子供は頭を撫でてやったが、あなたとは床でむつみ合った仲なのだからという意味。撫子と床撫づ(常夏)でどちらにも「撫づ」が使われているのがポイント。歌は雅と決めつけるのは王朝文化が途絶えた後のこと、平安文学にはかなり際どい表現が見られ、ことに源氏物語はそうした卑俗性に支えられている面があり、見落とされがちである。
大和撫子をばさしおきて/145
「あはれはかけよ撫子の露」と詠んできた女の歌意を脇に置いて後回しにする。
まづ塵をだに/145
今後は何をおいても、通いつめ、夜がれで淋しい思いをさせないの意味。「塵をだに据ゑじとぞ思ふ咲きしより妹とわが寝る常夏の花/古今和歌集・夏・凡河内躬恒)を下に敷く。毎晩床入りすれば塵が積もるようなことはない。
親の心をとる/145
機嫌をとるのではなく、親である女の気持ちを優先する。母親も子供はだしに使ったのであり、本心は会いたい、抱いてほしいということだから、その気持ちをくみ取ったとの意味。
うち払ふ/146
夜がれでつもった塵を床から払いのける。
袖も露けき/146
独り寝のさみしさに泣き濡れて袖が濡れている。ふたたび女は「露」のマイナスイメージに話題を戻す。
あらし吹きそふ/146
頭中将は後で知ることになるが、本妻が女に対してひどいことを言っていたことがすでに語られている。「この見たまふるわたりより情けなくうたてあることをなむさるたよりありてかすめ言はせたりける/02-139」。涙の露ばかり嵐まで吹き付け。
秋も来にけり/146
上に嵐は台風か。あらしの後には秋が訪れ、男が去って行く。「あき」は「秋」と「飽き」をかける。
はかなげ/146
「あらし吹きそふ」は、つらさが増すことの和歌的表現としか、この時の頭中将は理解しようがない。頭中将の本妻が怒って恨みごとを言ってきたことの比喩とわかるのは後のこと。この点を指して「はかなげ」とした。「はかなげ」とは、はっきりと内容がつかめないことをいう。
まめまめしく/146
生真面目に、本気で。
恥づかしく/146
気が引ける。
つらきをも思ひ知りけり/146
「つらき」は浮気など夫の薄情さに対する苦しみ。「思ひ知り」はしみじみと実感する。「けり」は詠嘆で、そういう経験をしたのだと強く感じること。
わりなく苦しきものと思ひたりしかば/146
「わりなく」は打開策がなく苦しむ状態。それほどまでにつらいと思っていたのでの意味。後に、そうは見せず等が省略されている。
心やすく/146
安心して、気楽に思って。
とだえ置き/146
女のもとに通うのをやめる、間があく。
世にあらば/147
生きていれば。
はかなき世/147
あてどのない身空。
あはれと思ひしほどに/148
当時、まだ愛情があった頃に。「ほど」は程度でもよい。
思ひまとはす/148
愛情をからみつける。
わづらはしげに/148
「(恨めしと思ふことも)見知らぬやうにて/02-137」「かうのどけきに/02-139」「例のうらもなき/02-143」「つらきをも思ひ知りけりと見えむはわりなく苦しきものと思ひたりしかば/02-147」などとあり、頭中将を困らせるような様子がなかった。
あくがらさざらまし/148
途方にくれさすことはしまい、迷わせたりしない。「あくがらす」は本来の場所から遊離した状態にさせる。
さるものにしなして/148
立派な妻の地位を与えて。
撫子/149
常夏の娘。後に玉鬘として物語の重要人物となる。頭中将は期せずして光源氏に娘を託すことになり、それと知らず光源氏は玉鬘を探索することとなる。これも「(言=事)構造」。
らうたく/149
かわいく。
いかで/149
何とかして。
のたまへるはかなき例/150
諸注にあるように「艶にもの恥」の例でなく、「はかなきついでの情あり/02-057」を受ける。左馬頭はその具体例として指を喰う女を挙げた。それは本心の怒りを表面的にやさしさで覆った女であった。常夏の場合、表面的な表情しか見えず、怒りも何も本心を少しも伺う知ることが出来なかったので、頭中将は頼みにすることができなかったのだ。指を喰う女よりも、こちらが「はかなき」例としては上であるということ。
つれなくて/150
女が無表情で。
益なき/150
無益な、無駄な。
かれ/151
常夏を指す。
はた…しも/151
女の方こそはまさしく。
え…思ひ離れず/151
私を思って愛情が離れることができず。
人やりならぬ/151
自分のせいであって、他人に責任転嫁できない。頭中将に愛情があるうちに、すがりつくなどの行動に出ればよかったのにという、後悔。
これなむ/152
このように本心がどこにあるか知れない女は。
え保つまじく/152
縁を保つことができない。
頼もしげなき/152
頭中将は「をかしともあはれとも心に入らむ人の頼もしげなき疑ひあらむこそ大事なるべけれ/02-080」と言っていた。
さればかのさがな者も/153
常夏の本心が見えないことが当てにならない理由と考えるならば、思い出の中で理想化してきた例の口うるさい女も。エピソードの最後に左馬頭は指を喰う女を「ひとへにうち頼みたらむ方はさばかりにてありぬべくなむ思ひたまへ出でらるる」と理想化していた。
さしあたりて見む/153
差し向かいでの意味であり、正妻として結婚する。
よくせずは/153
うまくいかない場合は。
飽きたき/153
嫌気が指す。
ありなむや/153
きっとそうなっただろうよ。「や」は詠嘆。
琴の音すすめけむ/153
琴を上手に弾いた木枯の女は「をかしきに進める方/057」の例であった。
かどかどしさ/153
才気。
この心もとなきも/154
常夏のこと。
疑ひ添ふ/154
男がいるのではないかという疑い。
いづれとつひに思ひ定めず/154
妻としてどういう女を選ぶべきかはついに決まらないの意味。左馬頭が指を喰う女を「ひとへにうち頼みたらむ方はさばかりにてありぬべくなむ思ひたまへ出でらるる/02-114」としたのに対する頭中将の意見。「女のこれはしもと難つくまじきは難くもあるかな/02-017」が頭中将のそもそもの持論である。
世の中/155
男女のこと。
ただかくこそ/155
ただこのように「思ひ定めずなりぬる」。
比べ苦しかるべき/155
ある観点を取り出し、それを基準に比較するのは難しい。
難ずべきくさはひまぜぬ/156
非難に当たる材料をまぜないの意味。「くさはひ」の感じ表記は「種」。
いづこにか/156
どこにいるだろうか。「か」は反語に近い。
吉祥天女/157
美・幸福・富を表象する女神で、美女の代名詞。宮中に伝わる五節の舞は吉祥天女が天武天皇の前に現れ、五回袖を振った故事からとの説がある。
思ひかけむ/157
懸想する。
法気づき/157
抹香臭い。
くすし/157
人間業でない。吉祥天女云々は、続く藤式部丞の蒜の女のエピソードを呼び起こす。「(言=事)構造」。
皆笑ひぬ/157
敬語がないことから、光源氏は議論(および、結論の笑い)に参加していなかったことが暗示される。補09参照。
おさらい
山がつの垣ほ荒るとも折々にあはれはかけよ撫子の露 思ひ出でしままにまかりたりしかば 例のうらもなきものから いと物思ひ顔にて 荒れたる家の露しげきを眺めて 虫の音に競へるけしき 昔物語めきておぼえはべりし
咲きまじる色はいづれと分かねどもなほ常夏にしくものぞなき
大和撫子をばさしおきて まづ塵をだになど 親の心をとる
うち払ふ袖も露けき常夏にあらし吹きそふ秋も来にけり とはかなげに言ひなして まめまめしく恨みたるさまも見えず 涙をもらし落としても いと恥づかしくつつましげに紛らはし隠して つらきをも思ひ知りけりと見えむは わりなく苦しきものと思ひたりしかば 心やすくて またとだえ置きはべりしほどに 跡もなくこそかき消ちて失せにしか まだ世にあらば はかなき世にぞさすらふらむ あはれと思ひしほどに わづらはしげに思ひまとはすけしき見えましかば かくもあくがらさざらまし こよなきとだえおかず さるものにしなして長く見るやうもはべりなまし かの撫子のらうたくはべりしかば いかで尋ねむと思ひたまふるを 今もえこそ聞きつけはべらね これこそのたまへるはかなき例なめれ つれなくてつらしと思ひけるも知らで あはれ絶えざりしも 益なき片思ひなりけり 今やうやう忘れゆく際に かれはたえしも思ひ離れず 折々人やりならぬ胸焦がるる夕べもあらむとおぼえはべり これなむ え保つまじく頼もしげなき方なりける されば かのさがな者も 思ひ出である方に忘れがたけれど さしあたりて見むにはわづらはしくよ よくせずは 飽きたきこともありなむや 琴の音すすめけむかどかどしさも 好きたる罪重かるべし この心もとなきも 疑ひ添ふべければ いづれとつひに思ひ定めずなりぬるこそ 世の中や ただかくこそ とりどりに比べ苦しかるべき このさまざまのよき限りをとり具し 難ずべきくさはひまぜぬ人は いづこにかはあらむ 吉祥天女を思ひかけむとすれば 法気づきくすしからむこそ また わびしかりぬべけれ とて 皆笑ひぬ